からは、手紙が書けるので手続も来ようが、リーズといえば、書くことも知らないのだから、ここであの子のことをわたしが忘《わす》れてしまえば、もうかの女はなにもかも世界の様子がわからなくなってしまうのだ。
「では、お父さんは、お子さんたちの便《たよ》りを、わたしが持って来るのがおいやなのですか」とわたしはたずねてみた。
「なるほどみんなの話では、おまえは子どもたちの所へ一人ひとり訪《たず》ねて行ってくれるということだが、それはありがたいが、といって、わたしたち自分のことばかり考えているわけにはゆかない。それよりかまずおまえのためを考えなければならないのだよ」
「では、わたしだってお父さんのおっしゃるとおりにして、自分の身の上の危険《きけん》をおそれて、今度の計画をやめてしまえば、やはり自分のことばかり考えて、あなたのことも、それからリーズのことも考えなくてもいいということになりますよ」
 お父さんはしばらくわたしの顔をながめていたが、急にわたしの両手を取った。
「まあ、よくおまえ、言っておくれだ。おまえはほんとうに真心《まごころ》がある」
 わたしはかれの首にうでをかけた。そのうち、さようならを言う時間が来た。しばらくのあいだかれはだまってわたしをおさえていた。やがていきなりかれはチョッキのかくしを探《さぐ》って、大きな銀時計を引き出した。
「さあ、おまえ、これをあげる」とかれは言った。「これをわたしの形見に持っていてもらいたい。たいした値打《ねう》ちのものではない。値打ちがあればわたしはとうに売ってしまったろう。時間も確《たし》かではない。いけなくなったらげんこでたたきこわしてもいい。でもこれがわたしの持っているありったけだ」
 わたしはこんなりっぱなおくり物を断《ことわ》ろうと思ったけれど、かれはそれをわたしのにぎった手に無理《むり》におしこんだ。
「ああ、わたしは時間を知る必要《ひつよう》はないのだ。時間はずいぶんゆっくりゆっくりたってゆく。それを勘定《かんじょう》していたら、死んでしまう。さようなら、ルミや。いつでもいい子でいるように、覚《おぼ》えておいで」
 わたしはひじょうに悲しかった。どんなにあの人はわたしに優《やさ》しくしてくれたであろう。わたしは別《わか》れてのち長いあいだ刑務所《けいむしょ》のドアの回りをうろうろした。ぼんやりわたしはそのまま夜まででも
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