》」
「ほんとうです。森なんか見えません」
「広い道もないかい」
「なんにも見えません」
「道をまちがえたかな」
わたしはなにも言えなかった。なぜならわたしはどこにいるのかもわからなかったし、どこへ行くのだかもわからなかったから。
「もう五分ばかり歩いてみよう。それでも森が見えなかったら、ここまで引っ返して来よう。ことによると道をまちがえたかもわからん」
わたしたちが道に迷《まよ》ったことがわかると、もうからだになんの力も残《のこ》らないように思われた。親方はわたしのうでを引《ひ》っ張《ぱ》った。
「さあ」
「ぼくはもう歩けません」
「いやはや、おまえはわたしがおまえをしょって行けると思うかい。わたしはすわったらもう二度と立ち上がることはできないし、そのまま寒さにこごえて死んでしまうだろうと思うからだ」
わたしはかれについて歩いた。
「道に深い車の輪《わ》のあとがついてはいないか」
「いいえ、なんにも」
「じゃあ引っ返さなきゃならない」
わたしたちは引っ返した。今度は風に向かうのである。それはむちのようにぴゅうと顔を打った。わたしの顔は火で焼《や》かれるように思われた。
「車の輪《わ》のあとを見たら言っておくれ。左のほうへ分かれる道をとって行かなければならない」と親方は力なく言った。「それが見えたら言っておくれ。そこの四つ角に円い頭のような形のいばらがある」
十五分ばかりわたしたちは風と争《あらそ》いながら歩み続《つづ》けた。しんとした夜の沈黙《ちんもく》の中でわたしたちの足音がかわいた固《かた》い土の上でさびしくひびいた。もうふみ出す力はほとんどなかったが、でも親方を引きずるようにしたのはわたしであった。どんなにわたしは左のほうを心配してはながめたろう。暗いかげの中でわたしはふと小さな赤い灯《ひ》を見つけた。
「ほら、ご覧《らん》なさい、明かりが」とわたしは指さしながら言った。
「どこに」
親方は見た。その明かりはほんのわずかの距離《きょり》にあったが、かれにはなにも見えなかった。わたしはかれの視力《しりょく》がだめになったことを知った。
「その明かりがなにになろう」とかれは言った。「それはだれかの仕事場の机《つくえ》にともっているランプか、死にかかっている病人のまくらもとの灯《ひ》だ。わたしたちはそこへ行って戸をたたくわけにはいかない。遠くいなかへ出
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