こそはしなければならないと感じた。それにわたしは、どれほどかれを愛《あい》しているかを語りたい燃《も》えるような希望《きぼう》を、いや少なくとも、なにかかれのためにしてやりたい希望を持っていた。
「あなたはご病気なんでしょう」かれがまた立ち止まったとき、わたしは言った。
「どうもそうではないかと思うよ。とにかくわたしはひじょうにつかれている。この寒さがわたしの年を取ったからだにはひどくこたえる。わたしはいいねどこと炉《ろ》の前で夕飯《ゆうはん》を食べたい。だがそれはゆめだ。さあ、前へ進め、子どもたち」
 前へ進め。わたしたちは町を後にした。わたしたちは郊外《こうがい》へ出ていた。もう往来《おうらい》の人も巡査《じゅんさ》も街燈《がいとう》も見えない。ただ窓明《まどあ》かりがそこここにちらちらして、頭の上には黒ずんだ青空に二、三点星が光っているだけであった。いよいよはげしくあらくふきまくる風が着物をからだに巻《ま》きつけた。幸いと向かい風ではなかったが、でもわたしの上着のそでは肩《かた》の所までぼろばろに破《やぶ》れていたから、そのすきから風はえんりょなくふきこんで、骨《ほね》まで通るような寒気が身にこたえた。
 暗かったし、往来《おうらい》はしじゅうたがいちがいに入り組んでいたが、親方は案内《あんない》を知っている人のようにずんずん歩いた。それでわたしも迷《まよ》うことはないとしっかり信《しん》じて、ついて行った。するととつぜんかれは立ち止まった。
「おまえ、森が見えるかい」とかれはたずねた。
「そんなものは見えません」
「大きな黒いかたまりは見えないかい」
 わたしは返事をするまえに四方を見回した。木も家も見えなかった。どこもかしこもがらんと打ち開いていた。風のうなるほかになんの物音も聞こえなかった。
「わたしがおまえだけに目が見えるといいのだがなあ。ほら、あちらを見てくれ」かれは右の手を前へさし延《の》べた。わたしはそっけなくなにも見えないとは言いかねて、返事をしなかったので、かれはまたよぼよぼ歩き出した。
 二、三分だまったまま過《す》ぎた。そのときかれはもう一度立ち止まっては、また森が見えないかとたずねた。ばくぜんとした恐怖《きょうふ》に声をふるわせながら、わたしはなにも見えないと答えた。
「おまえこわいものだから目が落ち着かないのだ。もう一度よくご覧《らん
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