晩《ばん》が来ようとしていた。長いあいだ、親方は石の上にすわっていた。カピとわたしはだまってその前に立って、なんとか決心のつくまで待っていた。とうとうかれは立ち上がった。
「どこへ行くんです」
「ジャンチイイ。そこでいつかねたことがある石切り場を見つけることにしよう。おまえつかれているかい」
「ぼくはガロフォリの所で休みました」
「わたしは休まなかったので、どうもつらい。あまり無理《むり》はできないが、行かなければなるまい。さあ前へ進め、子どもたち」
 これはいつもわたしたちが出発するとき、犬やわたしに向かって用いるかれの上きげんな合図であった。けれど今夜はそれをいかにも悲しそうに言った。
 いまわたしたちはパリの町の中をさまよい歩いていた。夜は暗かった。ちらちら風にまばたきながら、ガス燈《とう》がぼんやり往来《おうらい》を照《て》らしていた。一足ごとにわたしたちは氷のはったしき石の上ですべった。親方がしじゅうわたしの手を引いていた。カピがわたしたちのあとからついて来た。しじゅうかわいそうな犬は立ち止まって、ふり返っては、はきだめの中を探《さが》して、なにか骨《ほね》でもパンくずでも見つけようとした。ああ、ほんとにそれほど腹《はら》を減《へ》らしているのだ。けれどはきだめは雪が固《かた》くこおりついていて、探《さが》しても、むだであった。耳をだらりと下げたままかれはとぼとぼとわたしたちに追い着いて来た。
 大通りをぬけて、たくさんの小路《こうじ》小路を出ると、またたくさんの大通りがあった。わたしたちは歩いて歩いて歩き続《つづ》けた。たまたま会う往来《おうらい》の人がびっくりしてわたしたちをじろじろ見た。それはわたしたちの身なりのためであったか、わたしたちがとぼとぼ歩いて行くつかれきった様子が、かれらの注意をひいたのであろうか。行き会う巡査《じゅんさ》もふり向いてわたしたちを見送った。
 ひと言も口をきかずに親方は歩いた。かれの背中《せなか》はほとんど二重《ふたえ》に曲がっていたが、寒いわりにかれの手はわたしの手の中でかっかとしていた。かれはふるえていたように思われた。ときどきかれが立ち止まって、しばらくわたしの肩《かた》によりかかるようにするときには、かれのからだ全体がふるえて、いまにもくずれるように感じた。いつもならわたしはかれに問いかけることはしなかったが、今夜
前へ 次へ
全163ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
楠山 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング