いた例《れい》のハープを外《はず》して持って来る。そうして四人の兄弟|姉妹《しまい》におどりをおどらせる。だれもかれもダンスを習った者はなかったが、アルキシーとバンジャメンは一度ミルコロンヌで婚礼《こんれい》の舞踏会《ぶとうかい》へ行って、コントルダンスのしかただけ多少|正確《せいかく》に記憶《きおく》していた。その記憶がかれらの手引きであった。かれらはおどりつかれると、わたしに歌のおさらいをさせる。そうしてわたしのナポリ小唄《こうた》はいつも決まって、リーズの心を動かさないことはないのであった。
このおしまいの一|節《せつ》を歌うとき、かの女の目はなみだにぬれないことはなかった。
そのとき気をまぎらすために、わたしはカピと道化芝居《どうけしばい》をやるのであった。カピにとってもこの日曜日は休日であった。その日はかれにむかしのことを思い出させた。それで一とおり役目を終わると、かれはいくらでもくり返してやりたがった。
二年はこんなふうにして過《す》ぎた。お父さんはわたしをよくさかり場や、波止場や、マドレーヌやシャトードーやの花市場へ連《つ》れて行ったり、よく花を分けてやる花作りの家に連れて行ったので、わたしもすこしずつパリがわかりかけてきた。そうしてそこはわたしが想像《そうぞう》したように大理石や黄金の町ではなかったが、あのとき初《はじ》めてシャラントンやムフタール区《く》からはいって来たとき見て早飲みこみに思ったようなどろまみれの町でもないことがわかった。わたしは記念碑《きねんひ》を見た。その中へもはいってみた。波止場通り、大通りをも、リュクサンプールの公園をも、チュイルリの公園をも、シャンゼリゼーをも、歩いてみた。銅像《どうぞう》も見た。群衆《ぐんしゅう》の人波にもまれて、感心して立ち止まったこともあった。これで大都会というものがどんなふうにできあがっているかという考えがほぼできてきた。
幸いにわたしの教育はただ目で見る物から受けただけではなかった。パリの町中《まちなか》を散歩《さんぽ》したりかけ歩いたりするついでに、ぐうぜん覚《おぼ》えるだけではなかった。このお父さんはいよいよ自前《じまえ》で植木屋を開業するまえに植物園の畑で働《はたら》いていた。そこには学者たちがいて、かれにしぜん、物を読んで覚《おぼ》えたいという好奇心《こうきしん》を起こさせた。それ
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