いのもあり、白いのもあり、むらさき色のもあって、その色によって分けられて、いくつかのフレームに入れられてあった。白は白、赤は赤、同じ色のフレームが一列にならんでみごとであった。夕方フレームのふたをするじぶんには、花から立つかおりが風にふくれていた。
 わたしにあてがわれた仕事はまだ弱よわしい子どもの力に相応《そうおう》したものであった。毎朝しもが消えると、わたしはガラスのフレームを開けなければならなかった。夜になって寒くならないうちにまたそれを閉めなければならなかった。昼のうちはわらのおおいで日よけをしてやらなければならなかった。これはむずかしい仕事ではなかったが、一日ひまがかかった。なにしろ何百というガラスを毎日二度ずつ動かさなければならなかった。
 このあいだリーズは灌水《かんすい》に使う水上《みずあ》げ機械《きかい》のそばに立っていた。そして皮のマスクで目をかくされた老馬《ろうば》のココットが、回しつかれて足が働《はたら》かなくなると、かの女は小さなむちをふるって馬をはげましていた。兄弟の一人はこの機械が引き上げたおけを返す、もう一人の兄弟はお父さんの手伝《てつだ》いをする。こんなふうにしててんでに自分の仕事を持っていて、むだに時間を費《ついや》すものはなかった
 わたしは村で百姓《ひゃくしょう》の働《はたら》くところを見たこともあるが、ついぞパリの近所の植木屋のような熱心《ねっしん》なり勇気《ゆうき》なり勤勉《きんべん》なりをもって働《はたら》いていると思ったことはなかった。実際《じっさい》ここではみんないっしょうけんめい、朝は日の出まえから起き、晩《ばん》は日がくれてあとまでいっぱいの時間を使いきってのちに寝台《ねだい》に休むのである。わたしはまた土地を耕《たがや》したことがあったが、勤労《きんろう》によって土地にまるで休憩《きゅうけい》をあたえないまでに耕作《こうさく》し続《つづ》けるということを知らなかった。だからアッケンのお父さんのうちはわたしにとってはりっぱな学校であった。
 わたしはいつまでも温室のフレームばかりには使われていなかった、元気が回復《かいふく》してきたし、自分もなにか地の上にまいてみるということに満足《まんぞく》を感じてきた。その種《たね》が芽《め》を出すのを見るのが、いっそうの満足であった。これはわたしの仕事であった。わたしの財産
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