大きなつばさをしょってはいないで、やはりわれわれただの人間と同様にしていることをふしぎに思ったりした。
わたしの病気は長かったし、重かった。快《こころよ》くなってはたびたびあともどりをしたので、ほんとうの両親でもいやきがさしたかもしれなかった。でもエチエネットはどこまでもがまん強く誠実《せいじつ》をつくしてくれた。いく晩《ばん》かわたしは肺臓《はいぞう》が痛《いた》んで、息がつまるように思われて、ねむられないことがあった。それでアルキシーとバンジャメンが代わりばんこに、寝台《ねだい》のそばにつききりについていてくれた。
ようようすこしずつ治《なお》りかけてきた。でも長い重病のあとであったから、すこしでもうちの外に出るには、グラシエールの牧場《ぼくじょう》が青くなり始めるまで待たなければならなかった。
そこで用のないリーズがエチエネットの代わりになって、ビエーヴル川の岸のほうへわたしを散歩《さんぽ》に連《つ》れて行ってくれた。真昼《まひる》の日ざかりに、わたしたちはうちを出て、カピを先に立てて、手を組みながらそろそろと歩いた。その年の春は暖《あたた》かで、日和《ひより》がよかった。少なくともわたしは暖かな心持ちのいい記憶《きおく》を持っている。だから同じことであった。
このへんはラ・メーゾン・ブランシュとグラシエールの間にある土地で、パリの人にはあまり知られていなかった。このへんに小さな谷があるということだけはぼんやり知られていたが、その谷に注《そそ》ぐ川はビエーヴル川であるから、この谷はパリの郊外《こうがい》ではいちばんきたない陰気《いんき》な所だと言いもし、信《しん》じられもしていた。だがそんなことはまるでなかった。うわさほど悪い所ではなかった。ビエーヴル川と言えば、たいてい人がセン・マルセルの場末《ばすえ》で、工場地になっているというので、頭からきたない所と決めてしまうのであるが、ヴェリエールやリュンジには自然《しぜん》のおもむきがあった。少なくともわたしのいたじぶんには、やなぎやポプラが青あおとしげっている下を水が流れていた。その両岸には緑の牧場《ぼくじょう》が、人家や庭のある小山のほうまでだんだん上りに続《つづ》いていた。春は草が青あおとしげって、白い小ぎくが碧玉《へきぎょく》をしきつめたもうせんの上に白い星をちりばめていたし、芽出《めだ》しやなぎや
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