れば外へぼくたちが出てもいいというのだ」
「たったそれだけしか言わないの」とわたしはこの翻訳《ほんやく》がたいへん簡単《かんたん》すぎると思って言った。
マチアはまごついたようであった。
「そのほかのことばはよくわかったか、どうだか知らない」とかれは言った。
「ではわかったと思うだけ言いたまえ」
「なんでもあの人は、ぼくたちも町でなにか商売でもして、一もうけして来るがいい。ただ飯《めし》を食われてはやりきれない、というようなことを言っていたと思う」
祖父《そふ》はかれの言ったことを、マチアが説明《せつめい》して聞かしているとさとったものらしく、中気《ちゅうき》でないほうの手でなにかをかくしにおしこもうとするような身ぶりをして、それから目配せをして見せた。
「出かけよう」とわたしはすぐに言った。
二、三時間のあいだわたしたちはそこらを歩き回ったが、道に迷《まよ》ってはいけないと思って遠くへは行かなかった。ベスナル・グリーンは夜見るよりも昼見るとさらにひどい所であった。マチアとわたしは、ほとんど口をきかなかった。ときどきかれはわたしの手をにぎりしめた。
わたしたちがうちへ帰ったとき、母親はまだ部屋《へや》から出て来なかった。開け放したドアのすきからわたしはかの女が机《つくえ》の上につっぷしているのを見た。かの女は病気なのだと思ったが、わたしは話をすることができないから、代わりにキッスしようと思って、そばへかけて行った。
するとかの女はふらふらする頭を持ち上げて、わたしのほうをながめたが、顔は見なかった。かの女の熱《あつ》い息の中には、ぷんとジン酒のにおいがした。わたしは後ずさりをした。かの女の頭はまた下がって、机《つくえ》の上にぐったりとなった。
「ジンに当たったのだよ」と祖父《そふ》は言って、歯をむき出した。
わたしはそのほうは見向きもせずにじっと立ちどまった。からだが石になったように感じた。どのくらいそうして立っていたか知らなかった。ふとわたしはマチアのほうを向いた。かれは両眼《りょうがん》になみだをいっぱいうかべて、わたしを見ていた。わたしはかれに合図をして、また二人でうちを出た。
長いあいだわたしたちはおたがいの手を組み合ってならんで歩きながら、何も言わずに、どこへ行こうという当てもなしに、まっすぐに歩いた。
「ルミ、きみはどこへ行くつもりだ」とか
前へ
次へ
全163ページ中119ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
楠山 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング