して言った。
「まあ、みんなが牛は養っていてくれるだろうよ」
「あしたたずねられたら、なんと言うつもりだ」とマチアが聞いた。
「ほんとうのことを言うさ」
「そうなれば、あの人たちはきみをバルブレンの手にわたすだろう。バルブレンのおっかあが一人きりだったら、あの人に向かってわたしたちの言うことがうそかどうか聞こうとする。そうなればもうあの人の不意《ふい》を驚《おどろ》かすことができなくなる」
「おやおや」
「きみはバルブレンのおっかあとは長いあいだ別《わか》れている。あの人がもう死んでしまって、いないとも限《かぎ》らない」
 このおそろしい考えだけはついぞこれまでわたしも起こしたことがなかった。でもヴィタリス老人《ろうじん》も死んだ……わたしはかの女までも亡《な》くしたかもわからない、という考えが、どうしてこれまで起こらなかったろう。
「なぜきみはそれを先に言わなかった」とわたしは言った。
「だってつごうのいいじぶんには、そんな考えは起こらなかったからさ。ぼくはきみの雌牛《めうし》をバルブレンのおっかあにおくるという考えでずいぶんうれしくなっていた。あの人がどんなに喜《よろこ》ぶだろうと思うと、死んでいるかもしれないなんていう考えはてんで起こらなかった」
 こう何事につけても悪いはうばかり見るのは、この暗い部屋《へや》のせいにちがいなかった。
「それから」とマチアはとび上がって、両うでをふり上げながら言った。「バルブレンのおっかあが死んで、あのこわいバルブレンのほうが生きていて、そこへぼくたちが行ったら、きっと雌牛《めうし》を取り上げて自分のものにしてしまうだろう」
 午後おそくなって、ドアが開かれ、白いひげを生やした老紳士《ろうしんし》が拘留所《こうりゅうしょ》にはいって来た。
「こら悪党《あくとう》ども、このかたに答えするのだぞ」といっしょについて来た典獄《てんごく》が言った。
「それでよろしい」と紳士《しんし》は言った。この人は検事《けんじ》であった。「わしは自分でこの子を尋問《じんもん》する」
 こう言ってかれは指でわたしをさし示《しめ》した。
「きみはもう一人の子を預《あず》かっていてもらいたい。そのほうはあとで調べるから」
 わたしは検事《けんじ》と二人になった。じっとわたしの顔を見つめながらかれは、わたしが雌牛《めうし》をぬすんだとがで告発《こくはつ》さ
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