これまでもないことではなかったのだから。ささ、おれたちにキッスをおし」
 わたしは「先生」とガスパールおじさんにキッスをした。それから着物をぬぎ捨《す》てて、水の中にとびこんだ。
 とびこむまえにわたしは言った。
「みんなでしじゅう声を立てていてください。その声で見当をつけるから」
 坑道《こうどう》の屋根の下の空き地が、自由にからだの働《はたら》けるだけ広かろうかとわたしはあやぶんでいた。これは疑問《ぎもん》であった。少し泳いでみて、そっと行けば行かれることがわかった。ほうぼうの坑道《こうどう》の出会う場所のそう遠くないことを、わたしは知っていた。けれどわたしは用心しなければならなかった。一度道をまちがえると、それなり迷《まよ》ってしまう危険《きけん》があった。坑道の屋根やかべは道しるべにはならなかった。地べたにはレールというもっと確《たし》かな道しるべがあった。これについて行けば、たしかにはしご段を見つけることができた。しじゅうわたしは足を下へやって、鉄のレールにさわりながら、またそっと上へうき上がった。後ろには仲間《なかま》の声が聞こえるし、足の下にはレールがあるので、わたしは道を迷わなかった。後ろの声がだんだん遠くなると、上のポンプの音が高くなった。わたしはぐんぐん進んで行った。ありがたい、もうまもなく日の光が見えるのだ。
 坑道《こうどう》のまん中をまっすぐに行きながら、わたしはレールにさわるために、右のほうへ曲がらなければならなかった。すこし行ってから、また水をくぐって、レールにさわりに行った。そこにはレールがなかった。坑道の右左と行ったが、やはりレールはなかった……。
 わたしは道をまちがえたのだ。
 仲間《なかま》の声はかすかなつぶやきのように聞こえていた。わたしは深い息を吸《す》いこんで、またとびこんだが、やはり成功《せいこう》しなかった。レールはなかった。
 わたしはちがった層《そう》にはいったのだ。知らないうちわたしは後もどりしたにちがいない。でもみんな呼《よ》ばなくなったのはどうしたのだろう。呼んでいるのかもしれないが、わたしには聞こえなかった。この冷《つめ》たい、まっ暗な水の中で、どちらへどう向いていいか、わたしは迷《まよ》った。
 するととつぜんまた声が聞こえた。わたしはやっとどちらの道を曲がっていいかわかった。後へ十二ほどぬき手を切って
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