ハープを肩《かた》にかけると、わたしは号令《ごうれい》をかけた。
「前へ進め」
 十五分たつと、わたしたちはパリを後に見捨《みす》てた。
 わたしがこの道を通ってパリを出るのは、バルブレンのおっかあに会いたいためであった。どんなにたびたびわたしはかの女に手紙を書いてやって、かの女を思っていること、ありったけの心をささげてかの女を愛《あい》していることを、言ってやりたかったかしれなかったが、亭主《ていしゅ》のバルブレンがこわいので、わたしは思いとどまった。もしバルブレンが手紙をあてにわたしを見つけたら、つかまえてまたほかの男に売りわたすかもしれなかった。かれはおそらくそうする権利《けんり》があった。わたしは好《この》んでバルブレンの手に落ちる危険《きけん》をおかすよりも、バルブレンのおっかあから恩知《おんし》らずの子どもだと思われているほうがましだと思った。
 でも手紙こそ書き得《え》なかったが、こう自由の身になってみれば、わたしは行って会うこともできよう。わたしの一座《いちざ》にマチアもはいっているので、わたしはいよいよそうしようと心を決めた。なんだかそれがわけなくできそうに思われた。わたしは先にかれを一人出してやって、かの女が一人きりでいるか見せにやる。それからわたしが近所に来ていることを話して、会いに行ってもだいじょうぶか、それのわかるまで待っている。それでバルブレンがうちにいれば、マチアからかの女にどこか安心な場所へ来るようにたのんで、そこで会うことができるのである。
 わたしはこのくわだてを考えながら、だまって歩いた。マチアもならんで歩いていた。かれもやはり深く考えこんでいるように思われた。
 ふと思いついて、わたしは自分の財産《ざいさん》をマチアに見せようと思った。カバンのふたを開けて、わしは草の上に財産を広げた。中には三|枚《まい》のもめんのシャツ、くつ下が三足、ハンケチが五枚、みんな品のいい物と、少し使ったくつが一足あった。
 マチアは驚嘆《きょうたん》していた。
「それからきみはなにを持っている」とわたしはたずねた。
「ぼくはヴァイオリンがあるだけだ」
「じゃあ分けてあげよう。ぼくたちは仲間《なかま》なんだから、きみにはシャツ二|枚《まい》と、くつ下二足にハンケチを三枚あげよう。だがなんでも二人のあいだに仲《なか》よく分けるのがいいのだから、きみは
前へ 次へ
全163ページ中51ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
楠山 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング