一時間ぼくのカバンを持ちたまえ。そのつぎの一時間はぼくが持つから」
 マチアは品物をもらうまいとした。けれどわたしはさっそく、自分でもひどくゆかいな、命令《めいれい》のくせを出して、かれに「おだまり」と命令した。
 わたしはエチエネットの小ばこと、リーズのばらを入れた小さなはこをも広げた。マチアはそのはこを開けて見たがったが、開けさせなかった。わたしはそのふたをいじることすら許《ゆる》さずに、カバンの中にまたしまいこんでしまった。
「きみはぼくを喜《よろこ》ばせたいと思うなら」とわたしは言った。「けっしてはこにさわってはいけない。……これはたいじなおくり物だから」
「ぼくはけっして開けないとやくそくするよ」とかれはまじめに言った。
 わたしはまたひつじの毛の服を着て、ハープをかついだが、そこに一つむずかしい問題があった。それはわたしのズボンであった。芸人《げいにん》が長いズボンをはくものではないように思われた。公衆《こうしゅう》の前へ現《あらわ》れるには、短いズボンをはいて、その上にくつ下をかぶさるようにはいて、レースをつけて、色のついたリボンを結《むす》ぶものである。長いズボンは植木屋にはけっこうであろうが……いまはわたしは芸人であった。そうだ、わたしは半ズボンをはかなければならない。わたしはさっそくエチエネットの道具ばこからはさみを出した。
 わたしがズボンのしまつをしているうち、ふとわたしは言った。
「きみはどのくらいヴァイオリンをひくか、聞かせてもらいたいな」
「ああ、いいとも」
 かれはひき始めた。そのあいだわたしは思い切ってはさみの先をズボンのひざからすこし上の所へ当てた。わたしは布《きれ》を切り始めた。
 けれどこれはチョッキと上着とおそろいにできた、ねずみ地のいいズボンであった。アッケンのお父さんがそれをこしらえてくれたとき、わたしはずいぶん得意《とくい》であった。けれどいま、それを短くすることをいけないこととは思わない。かえってりっぱになると思っていた。初《はじ》めはわたしもマチアのほうに気がはいらなかった。ズボンを切るのにいそがしかったが、まもなくはさみを動かす手をやめて、耳をそこへうばわれていた。マチアはほとんどヴィタリス親方ぐらいにうまくひいた。
「だれがきみにヴァイオリンを教えたの」とわたしは手をたたきながら聞いた。
「だれも。ぼくは一人で
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