そこでおし問答が始まった。だが老人《ろうじん》はまもなくやめて、「子どもにはおもしろくない話です。外へ出て遊ばせてやるがよろしい」と言った。そうしてバルブレンに目くばせをした。
「よし、じゃあ裏《うら》へ行っていろ。だがにげるな。にげるとひどい目に会わせるから」
バルブレンがこう言うと、わたしはそのとおりにするほかはなかった。それで裏庭へ出るには出たが、遊ぶ気にはなれない。大きな石にこしをかけて考えこんでいた。
あの人たちはわたしのことを相談《そうだん》している。どうするつもりだろう。
心配なのと寒いのとでわたしはふるえていた。二人は長いあいだ話していた。わたしはすわって待っていたが、かれこれ一時間もたってバルブレンが裏《うら》へ出て来た。
かれは一人であった。あのじいさんにわたしを手わたすつもりで連《つ》れて来たのだな。
「さあ帰るのだ」とかれは言った。
なに、うちへ帰る。――そうするとバルブレンのおっかあに別《わか》れないでもすむのかな。
わたしはそう言ってたずねたかったけれども、かれがひどくきげんが悪そうなのでえんりょした。
それで……だまってうちのほうへ歩いた。
けれどもうちまで行き着くまえに、先に立って歩いていたバルブレンはふいに立ち止まった。そうして乱暴《らんぼう》にわたしの耳をつかみながらこう言った。
「いいかきさま、ひと言でもきょう聞いたことをしゃべったらひどい目に会わせるから。わかったか」
おっかあの家
「おや」とバルブレンのおっかあはわたしたちを見て言った。「村長さんはなんと言いましたえ」
「会わなかったよ」
「どうして会わなかったのさ」
「うん、おれはノートルダームで友だちに会った。外へ出るともうおそくなった。だからあしたまた行くことにした」
それではバルブレンは犬を連《つ》れたじいさんと取り引きをすることはやめたとみえる。
うちへ帰える道みちもわたしはこれがこの男の手ではないかと疑《うたが》っていたが、いまのことばでその疑《うたが》いは消えて、ひとまず心が落ち着いた。またあした村へ行って村長さんを訪《たず》ねるというのでは、きっとじいさんとのやくそくはできなかったにちがいない。
バルブレンにはいくらおどかされても、わたしは一人にさえなったら、おっかあにきょうの話をしようと思っていたが、とうとうバルブレンはその晩《ばん》一晩じゅううちをはなれないので話す機会《きかい》がなかった。
すごすごねどこにもぐりながら、あしたは話してみようと思っていた。
けれどそのあくる日起き上がると、おっかあの姿《すがた》が見えない。わたしがそのあとを追ってうちじゅうをくるくる回っているのを見て、なにをしているとバルブレンは聞いた。
「おっかあ」
「ああ、それなら村へ行った。昼過《ひるす》ぎでなければ帰るものか」
おっかあはまえの晩《ばん》、村へ行く話はしなかった。それでなぜというわけはないが、わたしは心配になってきた。わたしたちが昼過ぎから出かけるというのに、どうして待っていないのだろう。わたしたちの出かけるまえにおっかあは帰って来るかしらん。
なぜというしっかりしたわけはないのだが、わたしはたいへんおどおどしだした。
バルブレンの顔を見るとよけいに心配が積《つ》もるばかりであった。その目つきからにげるためにわたしは裏《うら》の野菜畑《やさいばたけ》へかけこんだ。
畑といってもたいしたものではなかった。それへなんでもうちで食べる野菜物《やさいもの》は残《のこ》らずじゃがいもでもキャベツでも、にんじんでも、かぶでも作りこんであった。それはちょっとの空き地もなかったのであるが、それでもおっかあはわたしに少し地面を残《のこ》しておいてくれたので、わたしはそこへ雌牛《めうし》を飼《か》いながら野でつんで来た草や花を、ごたごた植えこんだ。わたしはそれを『わたしの畑』と呼《よ》んでだいじにしていた。
わたしがいろいろな草花を集めては、植えつけたのは去年の夏のことであった。それが芽《め》をふくのはこの春のことであろう。早ざきのものでも冬の終わるのを待たなければならなかった。これから続《つづ》いておいおい芽を出しかけている。
もう黄ずいせんもつぼみを黄色くふくらましていたし、リラの花も芽を出していた。さくらそうもしわだらけな葉の中からかわいいつぼみをのぞかせている。
どんな花がさくだろう。
それを楽しみにして、わたしは毎日出てみた。
それからまたわたしのだいじにしていた畑の一部には、だれかにもらっためずらしい野菜《やさい》を植えている。それは村でほとんど知っている者のない『きくいも』というものであった。なんでもいい味のもので、じゃがいもと、ちょうせんあざみと、それからいろいろの野菜《やさい》をいっしょにした味がするのであった。わたしはそっとこの野菜をじょうずに作って、おっかあをおどろかそうと思っていた。ただの花だと思わせておいて、そっと実のなったところを引きぬいて、ないしょで料理《りょうり》をして、いつも同じようなじゃがいもにあきあきしているおっかあに食べさせて、『まあルミ、おまえはなんて器用《きよう》な子だろう』と感心させてやろう。
こんなことを思い思いこのときも、まだ芽《め》が出ないかと思って、種《たね》のまいてある地べたに鼻をくっつけて調べていた。ふと気がつくとバルブレンがかんしゃく声で呼《よ》びたてているので、びっくりしてうちへはいった。まあどうだろう。おどろいたことには、炉《ろ》の前にヴィタリス老人《ろうじん》と犬たちが立っているではないか。
すぐとわたしはバルブレンがわたしをどうするつもりだということがわかった。老人がやはりわたしを連《つ》れて行くのだ。それをおっかあがじゃましないように村へ出してやったのだ。
もうバルブレンになにを言ってみてもむだだということがわかっているから、わたしはすぐと老人《ろうじん》のほうへかけ寄《よ》った。
「ああ、ぼくを連《つ》れて行かないでください。後生《ごしょう》ですから、連れて行かないでください」とわたしはしくしく泣《な》きだした。
すると老人《ろうじん》は優《やさ》しい声で言った。「なにさ、ぼうや、わたしといればつらいことはないよ。わたしは子どもをぶちはしない。仲間《なかま》には犬もいる。わたしと行くのがなぜ悲しい」
「おっかあが……」
「どうせきさまはここには置《お》けないのだ」とバルブレンはあらあらしく言って、耳を引《ひ》っ張《ぱ》った。
「このだんなについて行くか、孤児院《こじいん》へ行くか、どちらでもいいほうにしろ」
「いやだいやだ、おっかあ、おっかあ」
「やい、それだとおれはどうするか見ろ」とバルブレンがさけんだ。「思うさまひっぱたいて、このうちから追い出してくれるぞ」
「この子は母親に別《わか》れるのを悲しがっているのだ。それをぶつものではない。優《やさ》しい心だ。いいことだ」
「おまえさんがいたわると、よけいほえやがる」
「まあ、話を決めよう」
そう言いながら、老人《ろうじん》は五フランの金貨《きんか》を八|枚《まい》テーブルの上にのせた。バルブレンはそれをさらいこむようにしてかくしに入れた。
「この子の荷物は」と老人が言った。
「ここにあるさ」とバルブレンが言って、青いもめんのハンケチで四すみをしばった包《つつ》みをわたした。
中にはシャツが二|枚《まい》と、麻《あさ》のズボンが一着あるだけであった。
「それではやくそくがちがうじゃないか。着物があるという話だったが、これはぼろ[#「ぼろ」に傍点]ばかりだね」
「こいつはほかにはなにもないのだ」
「この子に聞けば、きっとそうではないと言うにちがいないが、そんなことを争《あらそ》っているひまがない。もう出かけなければならないからな。さあおいで、こぞうさん、おまえの名はなんと言うんだっけ」
「ルミ」
「そうか、よしよし、ルミ。包《つつ》みを持っておいで。先へおいで、カピ。さあ、行こう、進め」
わたしは哀訴《あいそ》するように両手を老人《ろうじん》に出した。それからバルブレンにも出した。けれども二人とも顔をそむけた。しかも、老人はわたしのうで首をつかまえようとした。
わたしは行かなければならない。
ああ、このうちにもお別《わか》れだ。いよいよそのしきいをまたいだとき、からだを半分そこへ残《のこ》して行くようにわたしは思った。
なみだをいっぱい目にうかべて[#「うかべて」は底本では「うがべて」]わたしは見回したが、手近にはだれもわたしに加勢《かせい》してくれる者がなかった。往来《おうらい》にもだれもいなかった。牧場《ぼくじょう》にもだれもいなかった。
わたしは呼《よ》び続《つづ》けた。
「おっかあ、おっかあ」
けれどだれもそれに答える者はなかった。わたしの声はすすり泣《な》きの中に消えてしまった。
わたしは老人《ろうじん》について行くほかはなかった。なにしろうで首をしっかりおさえられているのだから。
「さようなら、ごきげんよう」とバルブレンがさけんだ。
かれはうちの中へはいった。
ああ、これでおしまいである。
「さあ、行こう、ルミ、進め」と老人《ろうじん》が言って。わたしのひじをおさえた。
わたしたちはならんで歩いた。幸せとかれはそう早く歩かなかった。たぶんわたしの足に合わせて歩いてくれたのであろう。
わたしたちは坂を上がって行った。ふり返るとバルブレンのおっかあのうちがまだ見えたが、それはだんだんに小さく小さくなっていった。この道はたびたび歩いた道だから、もうしばらくはうちが見えて、それから最後《さいご》の四つ角を曲がるともう見えなくなることをわたしはよく知っていた。行く先は知らない国である。後ろをふり返ればきょうの日まで幸福な生活を送ったうちがあった。おそらく二度とそれを見ることはないであろう。
幸い坂道は長かったが、それもいつか頂上《ちょうじょう》に来た。
老人《ろうじん》はおさえた手をゆるめなかった。
「少し休ましてくださいな」とわたしは言った。
「うん、そうだなあ」とかれは答えた。
かれはやっとわたしをはなしてくれた。
けれどカピに目くばせをすると、犬もそれをさとった様子がわたしには見えた。
それですぐと、ひつじ飼《か》いの犬のように、一座《いちざ》の先頭からはなれてわたしのそばへ寄《よ》って来た。
わたしがにげ出しでもすれば、すぐにかみついてくるにちがいない。
わたしは草深い小山の上に登ってこしをかけると、犬も後ろについていた。
わたしはなみだにくもった目で、バルブレンのおっかあのうちを探《さが》した。
下には谷があって、所どころに森や牧場《ぼくじょう》があった。それからはるか下にいままでいたうちが見えた。黄色いささやかなけむりが、そこのけむり出しからまっすぐに空へ立ちのぼって、やがてわたしたちのほうへなびいて来た。
気の迷《まよ》いか、そのけむりはうちのかまどのそばでかぎ慣《な》れたかしの葉のにおいがするようであった。
それは遠方でもあり、下のほうになってはいたが、なにもかもはっきり見えた。ただなにかがたいへん小さく見えたのは言うまでもない。
ちりづかの植えにうちの太っためんどりがかけ回っていたが、いつものように大きくは見えなかった。うちのめんどりだということを知っていなかったら、小さなはとだと思ったかもしれない。うちの横には、わたしが馬にしていつも乗った曲がったなしの木が、小川のこちらには、わたしが水車をしかけようとして大さわぎをしてきずきかけたほりわりが見えた。まあ、その水車にはずいぶんひまをかけたが、とうとう回らなかった。わたしの畑も見えた。ああ、わたしのだいじな畑が。
わたしの花がさいてもだれが見るだろう。わたしの『きくいも』をだれが食べるだろう。きっとそれはバルブレンだ。あの悪党《あくとう》のバルブレンだ。
もう一|足《あし》往来《おうらい》へ出れば、わたしの畑もなにもか
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