目つきでにらめた。わたしはぞっとした。
「この子どもはなんだ」と、かれは言った。
 マチアはさっそくていねいにヴィタリス親方の口上《こうじょう》をかれに伝《つた》えた。
「ああ、じゃあヴィタリスが来たのか」とかれが言った。「なんの用だろう」
「わたしはぞんじません」とマチアが答えた。
「おれはきさまに言っているのではない。この子どもに話しているのだ」
「親方がいずれもどって来て、用事を自分で申し上げるでしょう」と、わたしは答えた。
「ははあ、このこぞうはことばの値打《ねう》ちを知っている。要《い》らぬことは言わぬ。おまえはイタリア人ではないな」
「ええ、わたしはフランス人です」
 ガロフォリが部屋《へや》にはいって来たしゅんかん、二人の子どもがてんでんにかれの両わきに席《せき》をしめた。そしてかれのことばの終わるのを待っていた。やがて一人がそのフェルト帽《ぼう》をとって、ていねいに寝台《ねだい》の上に置《お》くと、もう一人はいすを持ち出して来た。かれらはこれを同じようなもったいらしさと、行儀《ぎょうぎ》よさをもって、寺小姓《てらこしょう》が和尚《おしょう》さんにかしずくようにしていた。ガロフォリがこしをかけると、もう一人の子どもがたばこをつめたパイプを持って来た。すると第四の子どもがマッチに火をつけてさし出した。
「いおうくさいやい。がきめ」とかれはさけんで、マッチを炉《ろ》の中に投げこんだ。
 この罪人《ざいにん》はあわてて過失《かしつ》をつぐなうために、もう一本のマッチをともして、しばらく燃《も》やしてから主人にそれをささげた。けれどもガロフォリはそれを受け取ろうとはしなかった。
「だめだ。とんちきめ」とかれは言って、あらっぽく子どもをつきのけた。それからかれはもう一人の子どものほうを向いて、おせじ笑《わら》いをしながら言った。
「リカルド、おまえはいい子だ。マッチをすっておくれ」
 この「いい子」はあわてて言いつけどおりにした。
「さて」とガロフォリは具合よくいすに納《おさ》まって、パイプをふかしながら言った。
「おこぞうさんたち、これから仕事だ。マチア、帳面だ」
 こう言われるまでもなく、子どもたちはガロフォリのまゆの動き方一つにも心を配っていた。そのうえにガロフォリがわざわざ口に出して用向きを言いつけてくれるのは、たいへんな好意《こうい》であった。
 ガロフォリはマチアの持って来たあかじみた小さな帳面には目もくれなかった。初《はじ》めのいおうくさいマッチをつけた子どもに、来いと合図をした。
「おまえにはきのう一スー貸《か》してある。それをきょう持って来るやくそくだったが、いくら持って来たな」
 子どもは赤くなって、当惑《とうわく》を顔に表して、しばらくもじもじしていた。
「一スー足りません」とかれはやっと言った。
「はあ、おまえは一スー足りないのかね。それでいいのだね」
「きのうの一スーではありません。きょう一スー足りないのです」
「それで二スーになる。おれはきさまのようなやつを見たことがない」
「わたしが悪いんではないんです」
「言《い》い訳《わけ》をしなさんな。規則《きそく》は知っているだろう。着物をぬぎなさい。きのうの分が二つ、きょうの分が二つ。合わせて四つ。それから横着《おうちゃく》の罰《ばつ》に夕食のいもはやらない。リカルド、いい子や。おまえはいい子だから、気晴らしをさせてやろう。むちをお取り」
 二本目のマッチをつけた子どものリカルドが、かべから大きな結《むす》び目《め》のある皮ひもの二本ついた、柄《え》の短いむちを下ろした。そのあいだに二スー足りない子どもは上着のボタンをはずしていた。やがてシャツまでぬいでからだをこしまで現《あらわ》した。
「ちょっと待て」とガロフォリがいまいましい微笑《びしょう》を見せて言った。
「たぶんきさまだけではあるまい。仲間《なかま》のあるということはいつでもゆかいなものだし、リカルドにたびたび手数をかけずにすむ」
 子どもたちは親方の前に身動きもせずに立っていたが、かれの残酷《ざんこく》なじょうだんを開いて、みんな無理《むり》に笑《わら》わされた。
「いちばん笑ったやつはいちばん足りないやつだ」とガロフォリが言った。「きっとそれにちがいない。いちばん大きな声で笑ったのはだれだ」
 みんなは例《れい》の大きな材木《ざいもく》を持って、まっ先に帰って来た子どもを指さした。
「こら、きさまはいくら足りない」とガロフォリがせめた。
「わたしのせいではありません」
「わたしのせいではありませんなんかと言うやつは、一つおまけにぶってやろう。いくら足りないのだ」
「わたしは大きな材木を一本持って来ました。りっぱな材木です」
「それもなにかになる。だがパン屋へ行ってその棒《ぼう》でパンにかえてもらって来い。いくらにかえてくれるか。いくら足りないのだ。言ってみろ」
「わたしは三十六スー持って来ました」
「この悪者め、四スー足りないぞ。それでいて、そんなしゃあしゃあした面《つら》をして、おれの前につっ立っている。シャツをぬげ。リカルドや、だんだんおもしろくなるよ」
「でも材木《ざいもく》は」と子どもがさけんだ。
「晩飯《ばんめし》の代わりにきさまにやるわ」
 この残酷《ざんこく》なじょうだんが罰《ばっ》せられないはずの子どもたちみんなを笑《わら》わせた。それからほかの子どもたちも一人一人|勘定《かんじょう》をすました。リカルドがむちを手に持って立っていると、とうとう五人までの犠牲者《ぎせいしゃ》が一列にかれの前にならべられることになった。
「なあ、リカルド」とガロフォリが言った。「おれはこんなところを見るといつも気分が悪くなるから、見ているのはいやだ。だが音だけは聞ける。その音でおまえのうでの力を聞き分けることができる。いっしょうけんめいにやれよ。みんなきさまたちのパンのために働《はたら》くのだ」
 かれは炉《ろ》のほうへからだを向けた。それはあたかもかれがこういう懲罰《ちょうばつ》を見ているにしのびないというようであった。
 わたしは一人すみっこに立って、いきどおりとおそれにふるえていた。これがわたしの親方になろうとする男なのである。わたしもこの男に言いつけられた物を持って帰らなければ、やはりリカルドに背中《せなか》を出さねばならなかった。ああ、わたしはマチアがあれほど平気で死ぬことを口にしているわけがわかった。
 ぴしり、第一のむちがふるわれて、膚《はだ》に当たったとき、もうなみだがわたしの目にあふれ出した。わたしのいることは忘《わす》れられていたと思っていたけれど、それは考えちがいで、ガロフォリは目のおくからわたしを見ていた。
「人情《にんじょう》のある子どもがいる」とかれはわたしを指さした。「あの子はきさまらのような悪党《あくとう》ではない。きさまらは仲間《なかま》が苦しんでいるところを見て笑《わら》っている。この小さな仲間を手本にしろ」
 わたしは頭のてっぺんから足のつま先までふるえた。ああ、かれらの仲間か……。
 第二のむちをくって犠牲《ぎせい》はひいひい泣《な》き声《ごえ》を立てた。三度目には引きさかれるようなさけび声を上げた。ガロフォリが手を上げた。リカルドはふり上げたむちをひかえた。わたしはガロフォリがさすがに情《なさ》けを見せるのだと思ったが、そうではなかった。
「きさまらの泣き声を聞くのはおれにはどのくらいつらいと思う」とかれはねこなで声で犠牲《ぎせい》に向かって言いかけた。「むちがきさまらの皮をさくたんびにさけび声がおれのはらわたをつき破《やぶ》るのだ。ちっとはおれの苦しい心も察《さっ》して、気のどくに思うがいい。だからこれから泣《な》き声《ごえ》を立てるたんびによけいに一つむちをくれることにするからそう思え。これもきさまらが悪いのだ。きさまらがおれに対してちっとでも情《なさ》けや恩《おん》を知っているなら、だまっていろ。さあ、やれ、リカルド」
 リカルドがむちをふり上げた。皮ひもは犠牲《ぎせい》の背中《せなか》でくるくる回った。
「おっかあ。おっかあ」とその子どもがさけんだ。
 ありがたい。わたしはこのうえこのおそろしい呵責《かしゃく》を見ずにすんだ。なぜといってこのしゅんかんドアがあいて、ヴィタリス親方がはいって来たからである。
 人目でかれはなにもかも了解《りょうかい》した。かれははしご段《だん》を上がりながらさけび声を聞いたので、すぐリカルドのそばにかけ寄《よ》って、むちを手からうばった。それからガロフォリのほうへくるりと向いて、うで組みをしたままかれの前につっ立った。
 これはいかにもとっさのあいだに起こったので、しばらくはガロフォリもぽかんとしていた。けれどもすぐ気を取り直しておだやかに言った。
「どうもおそろしいようじゃないか。なにね、あの子どもは気がちがっているのだ」
「はずかしくはないか」ヴィタリスがさけんだ。
「それ見ろ、わたしもそういうことだ」とガロフォリがつぶやいた。
「よせ」とヴィタリス親方が命令《めいれい》した。「とぼけるなよ。おまえのことだ。子どもではない。こんな手向かいのできないかわいそうない子どもらをいじめるというのは、なんというひきょうなやり方だ」
「この老《お》いぼれめ。よけいな世話を焼《や》くな」とガロフォリが急に調子を変《か》えてさけんだ。
「警察《けいさつ》ものだぞ」とヴィタリスが反抗《はんこう》した。
「なに、きさま、警察でおどすのか」とガロフォリがさけんだ。
「そうだ」と、わたしの親方は乱暴《らんぼう》な相手《あいて》の気勢《きせい》にはちっともひるまないで答えた。
「ははあ」とかれはあざ笑《わら》った。「そんなふうにおまえさんは言うのだな。よしよし、おれにも言うことがあるぞ。おまえのしたことはなにも警察《けいさつ》に関係《かんけい》はないが、おまえさんに用のあるという人が世間にはあるのだ。おれがそれを言えば、おれが一度名前を言えば……はてはずかしがって頭をすぼめるのはだれだろうなあ。世間が知りたがっているその名前を言い回っただけでも、はじになる人がどこかにいるぞ」
 親方はだまっていた。はじだ。親方のはじだ。なんだろう。わたしはびっくりした。けれど考えるひまのないうちに、かれはわたしの手を引《ひ》っ張《ぱ》った。
「さあ、行こう、ルミ」とかれは言った、そうして戸口までぐんぐんわたしを引っ張った。
「まあ、いいやな」ガロフォリが今度は笑《わら》いながらさけんだ。「きみ、話があって来たんだろう」
「おまえなんぞに言うことはなにもない」
 それなり、もうひと言も言わずに、わたしたちははしご段《だん》を下りた。かれはまだしっかりわたしの手をおさえていた。なんというほっとした心持ちで、わたしはかれについて行ったろう。わたしは地獄《じごく》の口からのがれた。わたしが思いどおりにやれば、親方の首に両手をかけて、強く強くだきしめたところであったろう。
[#地から1字上げ](つづく)



底本:「家なき子(上)」春陽堂少年少女文庫、春陽堂
   1978(昭和53)年1月30日発行
※底本中、難解な語句の説明に使われた括弧内の文章は、割り注になっています。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年4月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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