せた。それからとうとうしまいにはなみだをこぼしていた。かれに向かって、今夜|芝居《しばい》するなんという考えを捨《す》てなければならないことを納得《なっとく》させるには、たいへんな手数のかかることがわかっていた。それよりもかくれて出て行くほうがいいとわたしは思った。
親方が帰って来ると、かれはわたしにハープをしょったり、いろいろ興行《こうぎょう》に入りようなものを用意するように言いつけた。それがなんの意味だということを知っているジョリクールは、今度は親方に向かって請求《せいきゅう》を始めた。かれは自分の希望《きぼう》を表すために苦しい声をしばり出したり、顔をしかめたり、からだを曲げたりするよりいいことはなかった。かれのほおにはほんとうになみだが流れていたし、親方の手におしつけたのは心からのキッスであった。
「おまえも芝居《しばい》がしたいのか」と親方はたずねた。
「そうですとも」とジョリクールのからだ全体がさけんでいるように思われた。かれは自分がもう病人でないことを示《しめ》すために、とび上がろうとした。でもわたしたちは外へかれを連《つ》れ出せば、いよいよかれを殺《ころ》すほかはないことをよく知っていた。
わたしたちはもう出て行く時刻《じこく》になった。出かけるまえにわたしは長く持つようにいい火をこしらえて、ジョリクールを毛布《もうふ》の中にすっかりくるんだ。かれはまたさけんで、できるだけの力でわたしをだきしめた。やっとわたしたちは出発した。
雪の中を歩いて行くと、親方はわたしに今夜はしっかりやってもらいたいということを話した。もちろん一座《いちざ》の主《おも》な役者たちがいなくなっていては、いつものようにうまくいくはずはなかったが、カピとわたしとでおたがいにいっしょうけんめいにやれるだけはやらなければならなかった。なにしろ四十フラン集めなければならなかった。
四十フラン。おそろしいことであった。できない相談《そうだん》であった。
親方はいろいろなことを用意しておいたので、わたしたちがすべきいっさいのことはろうそくの火をつけることであった。けれどこれはむやみにつけてしまうこともできない。見物がいっぱいになるまではひかえなければならない。なにしろ芝居《しばい》のすむまでに明かりがおしまいになるかもしれないのであった。
わたしたちがいよいよ芝居小屋にはいったとき、広告屋《こうこくや》はたいこをたたいて、最後《さいご》にもう一度村の往来《おうらい》を一めぐりめぐり歩いていた。
カピとわたしの仕度ができてから、わたしは外へ出て、柱の後ろに立って見物の来るのを待っていた。
たいこの音はだんだん高くなった。もうそれはさかり場に近くなって、ぶつぶつ言う人の声も聞こえた。たいこのあとからは子どもがおおぜい調子を合わせてついて来た。たいこを打ちやめることなしに、広告屋《こうこくや》は芝居小屋《しばいごや》の入口にともっている二つの大きなかがり火のまん中に位置《いち》をしめた。こうなると見物はただ、中にはいって場席《ばせき》を取れば、芝居《しばい》は始められるのであった。
おやおや、いつまで見物の行列は手間を取ることであろう。それでも戸口のたいこはゆかいそうにどんどん鳴り続《つづ》けていた。村じゅうの子どもは残《のこ》らず集まっているにちがいなかった。けれど四十フランの金をくれるものは子どもではなかった、ふところの大きい、物おしみをしない紳士《しんし》が来てくれなければならなかった。
とうとう親方は始めることに決心した。でも小屋はとてもいっぱいになるどころではなかった。それでもわたしたちはろうそくというやっかいな問題があるので、このうえ長くは待てなかった。
わたしはまずまっ先に現《あらわ》れて、ハープにつれて二つ三つ歌を歌わなければならなかった。正直に言えばわたしが受けたかっさいはごく貧弱《ひんじゃく》だった。わたしは自分を芸人《げいにん》だとはちっとも思ってはいなかったけれど、見物のひどい冷淡《れいたん》さがわたしをがっかりさせた。わたしがかれらをゆかいにしえなかったとすると、かれらはきっとふところを開けてはくれないであろう。わたしはわたしが歌った名誉《めいよ》のためではなかった。それはあわれなジョリクールのためであった。ああ、わたしはどんなにこの見物を興奮《こうふん》させ、かれらを有頂天《うちょうてん》にさせようと願《ねが》っていたことだろう……けれども見物席《けんぶつせき》はがらがらだったし、その少ない見物すら、わたしを『希世《きせい》の天才』だと思っていないことは、わかりすぎるほどわかっていた。
でもカピは評判《ひょうばん》がよかった。かれはいく度もアンコールを受けた。カピのおかげで興行《こうぎょう》が割《わ》れるようなかっさいで終わった。かれらは両手をたたいたばかりでなく、足拍子《あしびょうし》をふみ鳴らした。
いよいよ勝負の決まるときが来た。カピはぼうしを口にくわえて、見物の中をどうどうめぐりし始めた。そのあいだわたしは親方の伴奏《ばんそう》でイスパニア舞踏《ぶとう》をおどった。カピは四十フラン集めるであろうか。見物に向かってはありったけのにこやかな態度《たいど》を示しながら、この問題がしじゅうわたしの胸《むね》を打った。
わたしは息が切れていた。けれどカピが帰って来るまではやめないはずであったから、やはりおどり続《つづ》けた。かれはあわてなかった。一|枚《まい》の銀貨《ぎんか》ももらえないとみると、前足を上げてその人のかくしをたたいた。
いよいよかれが帰って来そうにするのを見て、もうやめてもいいかと思ったけれど、親方はやはりもっとやれという目くばせをした。
わたしはおどり続《つづ》けた。そして二足三足カピのそばへ行きかけて、ぼうしがいっぱいになっていないことを見た。どうしていっぱいになるどころではなかった。
親方はやはりみいりの少ないのを見ると、立ち上がって、見物に向かって頭を下げた。
「紳士《しんし》ならびに貴女《きじょ》がた。じまんではございませんが、本夕《ほんせき》はおかげさまをもちまして、番組どおりとどこおりなく演《えん》じ終わりましたとぞんじます。しかしまだろうそくの火も燃《も》えつきませんことゆえ、みなさまのお好《この》みに任《まか》せ、今度は一番てまえが歌を歌ってお聞きに入れようと思います。いずれ一座《いちざ》のカピ丈《じょう》はもう一度おうかがいにつかわしますから、まだご祝儀《しゅうぎ》をいただきませんかたからも、今度はたっぷりいただけますよう、まえもってご用意を願《ねが》いたてまつります」
親方はわたしの先生ではあったが、わたしはまだほんとうにかれの歌うのを開いたことはなかった。いや、少なくともその晩《ばん》歌ったように歌うのを開いたことがなかった。かれは二つの歌を選《えら》んだ。一つはジョセフの物語で、一つはリシャール獅子王《ししおう》の歌であった。
わたしはほんの子どもであったし、歌のじょうずへたを聞き分ける力がなかったが、親方の歌はみょうにわたしを動かした。かれの歌を聞いているうちに、目にはなみだがいっぱいあふれたので、舞台《ぶたい》のすみに引っこんでいた。
そのなみだの霧《きり》の中から、わたしは、前列のこしかけにすわっていた若《わか》いおくさんがいっしょうけんめい手をたたいているのを見た。わたしはまえから、この人が一人、今夜小屋に集まった百姓《ひゃくしょう》たちとちがっていることを見つけた。かの女は若《わか》い美しい貴婦人《きふじん》で、そのりっぱな毛皮の上着だけでもこの村一番の金持ちにちがいないとわたしは思った。かの女はいっしょに子どもを連《つ》れていた。その子もむちゅうでカピにかっさいしていた。ひじょうによく似《に》ているところを見れば、それはかの女のむすこであった。
初《はじ》めの歌がすむと、カピはまたどうどうめぐりをした。ところがそのおくさんはぼうしの中になにも入れなかったのを見て、わたしはびっくりした。
親方が第二の曲をすませたとき、かの女は手招《てまね》きをしてわたしを呼《よ》んだ。
「わたし、あなたの親方さんとお話ししたいんですがね」とかの女は言った。
わたしはびっくりした。(そんなことよりもなにかぼうしの中へ入れてくれればいい)とわたしは思った。カピはもどって来た。かれは二度目のどうどうめぐりでまえよりももっとわずか集めて来た。
「あの婦人《ふじん》がなにか用があると言うのか」と親方がたずねた。
「あなたにお話がしたいそうです」
「わたしはなにも話すことなんかない」
「あの人はなにもカピにくれませんでした。きっといまそれをくれようというんでしょう」
「じゃあ、カピをやってもらわせればいい。わたしのすることではない」
そうは言いながら、かれは行くことにして、犬を連《つ》れて行った。わたしもかれらのあとに続《つづ》いた。そのとき一人の僕《ぼく》(下男)が出て来て、ちょうちんと毛布《もうふ》を持って来た。かれは婦人《ふじん》と子どものわきに立っていた。
親方は冷淡《れいたん》に婦人《ふじん》にあいさつをした。
「おじゃまをしてすみませんでした。けれどわたくし、お祝《いわ》いを申し上げたいと思いました」
でも親方は一|言《ごん》も言わずに、ただ頭を下げた。
「わたくしも音楽の道の者でございますので、あなたの技術《ぎじゅつ》の天才にはまったく感動いたしました」
技術の天才。うちの親方が。大道の歌うたい、犬使いの見世物師《みせものし》が。わたしはあっけにとられた。
「わたしのような老《お》いぼれになんの技術《ぎじゅつ》がありますものか」とかれは冷淡《れいたん》に答えた。
「うるさいやつとおぼしめすでしょうが」と婦人《ふじん》はまた始めた。
「なるほどあなたのようなまじめなかたの好奇心《こうきしん》を満足《まんぞく》させてあげましたことはなによりです」とかれは言った。「犬使いにしては少し歌が歌えるというので、あなたはびっくりしておいでだけれど、わたしはむかしからこのとおりの人間ではありませんでした。これでも若《わか》いじぶんにはわたしは……いや、ある大音楽家の下男《げなん》でした。まあおうむのように、わたしは主人の口まねをして覚《おぼ》えたのですね。それだけのことです」
婦人《ふじん》は答えなかった。かの女は親方の顔をまじまじと見た。かれもつぎほのないような顔をしていた。
「さようなら、あなた」とかの女は外国なまりで言って、「あなた」ということばに力を入れた。
「さようなら。それからもう一度今夜味わわせていただいた、このうえないゆかいに対してお礼を申し上げます」こう言ってカピのほうをのぞいて、ぼうしに金貨《きんか》を一|枚《まい》落とした。
わたしは親方がかの女を戸口まで送って行くだろうと思ったけれど、かれはまるでそんなことはしなかった。そしてかの女がもう答えない所まで遠ざかると、わたしはかれがそっとイタリア語で、ぶつぶこごとを言っているのを聞いた。
「あの人はカピに一ルイくれましたよ」とわたしは言った。そのときかれは危《あぶ》なくわたしにげんこを一つくれそうにしたけれど、上げた手をわきへ垂《た》らした。
「一ルイ」とかれはゆめからさめたように言った。「ああ、そうだ、かわいそうに、ジョリクールはどうしたろう。わたしは忘《わす》れていた。すぐ行ってやろう」
わたしはそうそうに切り上げて、宿《やど》へ帰った。
わたしはまっ先に宿屋《やどや》のはしごを上がって部屋《へや》へはいった。火は消えてはいなかったが、もうほのおは立たなかった。
わたしは手早くろうそくをつけた。ジョリクールの声がちっともしないので、わたしはびっくりした。
やがてかれが陸軍大将《りくぐんたいしょう》の軍服《ぐんぷく》を着て、手足をいっぱいにつっぱったまま、毛布《もうふ》の上に横になっているのを見た。かれはねむっているように見えた。
わたしはからだをかがめ
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