《さいばん》のほうはどうなったの」とおっかあが言った。
「だめよ。裁判所ではおれが足場の下にいたのが悪いと言うのだ」そう言ってかれはこぶしで食卓《しょくたく》をごつんと打って、なんだかわけのわからないことを言って、しきりにののしっていた。
「裁判《さいばん》には負けるし、金はなくなるし、かたわにはなるし、びんぼうがじろじろ面《つら》をねめつけて(にらみつけて)いる。それだけでもまだ足りねえつもりか、うちへ帰って来ればがきがいる。なぜおれが言ったとおりにしなかったのだ」
「でもできなかったもの」
「孤児院《こじいん》へ連《つ》れて行くことができなかったのか」
「だってあんな小さな子を捨《す》てることはできないよ。自分の乳《ちち》で育ててかわいくなっているのだもの」
「あいつはてめえの子じゃあねえのだ」
「そうさ。わたしもおまえさんの言うとおりにしようと思ったのだけれど、ちょうどそのとき、あの子が加減《かげん》が悪くなったので」
「加減が悪く」
「ああ、だからどうにもあすこへ連《つ》れては行けなかったのだよ。死んだかもしれないからねえ」
「だがよくなってから、どうした」
「ええ、すぐにはよくならなかったしね、やっといいと思うと、また病気になったりしたものだから。かわいそうにそれはひどくせきをして、聞いていられないようだった。うちのニコラぼうもそんなふうにして死んだのだからねえ。わたしがこの子を孤児院《こじいん》に送ればやっぱり死んだかもしれないよ」
「だが……あとでは」
「ああ、だんだんそのうちに時がたって、延《の》び延びになってしまったのだよ」
「いったいいくつになったのだ」
「八つさ」
「うん、そうか。じやあ、これからでもいいや。どうせもっと早く行くはずだったのだ。だが、いまじゃあ行くのもいやがるだろう」
「まあ、ジェローム、おまえさん、いけない……そんなことはしないでおくれ」
「いけない、なにがいけないのだ。いつまでもああしてうちに置《お》けると思うか」
 しばらく二人ともだまり返った。わたしは息もできなかった。のどの中にかたまりができたようであった。
 しばらくして.バルブレンのおっかあが言った。
「まあ、パリへ出て、おまえさんもずいぶん人が変《か》わったねえ。おまえさん、行くまえにはそんなことは言わない人だったがねえ」
「そうだったかもしれない。だが、パリへ行っておれの人が変わったかしれないが、そこはおれを半殺《はんごろ》しにもした。おれはもう働《はたら》くことはできない。もう金はない。牛は売ってしまった。おれたちの口をぬらすことさえおぼつかないのに、おたがいの子でもないがきを養《やしな》うことができるか」
「あの子はわたしの子だよ」
「あいつはおれの子でもないが、きさまの子でもないぞ。それにぜんたい百姓《ひゃくしょう》の子どもじゃあない。びんぼう人の子どもじゃあない。きゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]すぎて物もろくに食えないし、手足もあれじゃあ働《はたら》けない」
「あの子は村でいちばん器量《きりょう》よしの子どもだよ」
「器量がよくないとは言いやしない。だがじょうぶな子ではないと言うのだ。あんなひょろひょろした肩《かた》をしたこぞうが労働者《ろうどうしゃ》になれると思うか。ありゃあ町の子どもだ。町の子どもを置《お》く席《せき》はないのだ」
「いいえ、あの子はいい子ですよ。りこうで、物がわかって、それで優《やさ》しいのだから、あの子はわたしたちのために働《はたら》いてくれますよ」
「だが、さし当たりは、おれたちがあいつのために働いてやらなければならない。それはまっぴらだ」
「もしかあの子のふた親が引き取りに来たらどうします」
「あいつのふた親だと。いったいあいつにはふた親があったのか。あればいままでに訪《たず》ねて来そうなものだ。あいつのふた親が訪ねて来て、これまでの養育料《よういくりょう》をはらって行くなどと考えたのが、ずいぶんばかげきっていた。気ちがいじみていた。あの子がレースのへりつきのやわらかい産着《うぶき》を着ていたからといって、ふた親があいつを訪ねに来ると思うことができるか。それに、もう死んでいるのだ。きっと」
「いいや、そんなことはない。いつか訪《たず》ねて来るかもしれない……」
「女というやつはなかなか強情《ごうじょう》なものだなあ」
「でも訪ねて来たら」
「ふん、そうなりゃ孤児院《こじいん》へ差《さ》し向けてやる。だがもう話はたくさんだ。おれはあしたは村長さんの所へあいつを連《つ》れて行って相談《そうだん》する。今夜はこれからフランスアの所へ行って来る。一時間ばかりしたら帰って来るからな」
 そのあいだにわたしはさっそく寝台《ねだい》の上で起き上がって、おっかあを呼《よ》んだ。
「ねえ、おっかあ」
 かの女はわたしの寝台のほうへかけてやって来た。
「ぼくを孤児院《こじいん》へやるの」
「いいえ、ルミぼう、そんなことはないよ」
 かの女はわたしにキッスをして、しっかりとうでにだきしめた。そうするとわたしもうれしくなって、ほおの上のなみだがかわいた。
「じゃあおまえ、ねむってはいなかったのだね」とかの女は優《やさ》しくたずねた。
「ぼく、わざとしたんじゃないから」
「わたしは、おまえをしかっているのではない。じゃあ、あの人の言ったことを聞いたろうねえ」
「ええ、あなたはぼくのおっかあではないんだって……そしてあの人もぼくのとっつぁんではないんだって」
 このあとのことばを、わたしは同じ調子では言わなかった。なぜというと、この婦人《ふじん》がわたしの母親でないことを知ったのは情《なさ》けなかったが、同時にあの男が父親でないことがわかったのは、なんだか得意《とくい》でうれしかった。このわたしの心の中の矛盾《むじゅん》はおのずと声に現《あらわ》れたが、おっかあはそれに気がつかないらしかった。
「まあわたしはおまえにほんとうのことを言わなければならないはずであったけれど、おまえがあまりわたしの子どもになりすぎたものだから、ついほんとうの母親でないとは言いだしにくかったのだよ。おまえ、ジェロームの言ったことをお聞きだったろう。あの人がおまえをある日パリのブルチュイー町の並木通《なみきどお》りで拾って来たのだよ。二月の朝早くのことで、あの人が仕事に出かけようとするとちゅうで、赤んぼうの泣《な》き声《ごえ》を聞いて、おまえをある庭の門口《かどぐち》で拾って来たのだ。あの人はだれか人を呼《よ》ぼうと思って見回しながら、声をかけると、一人の男が木のかげから出て来て、あわててにげ出したそうだよ。おまえ[#「おまえ」は底本では「おえ」]を捨《す》てた男が、だれか拾うか見届《みとど》けていたとみえる。おまえがそのとき、だれか拾ってくれる人が来たと感じたものか、あんまりひどく泣《な》くものだから、ジェロームもそのまま捨てても帰れなかった。それでどうしようかとあの人も困《こま》っていると、ほかの職人《しょくにん》たちも寄《よ》って来て、みんなはおまえを警察《けいさつ》へ届《とど》けることに相談《そうだん》を決めた。おまえはいつまでも泣きやまなかった。かわいそうに寒かったにちがいない。けれど、それから警察へ連《つ》れて行って、暖《あたた》かくしてあげてもまだ泣《な》いていた。それで今度はおなかが減《へ》っているのだろうというので、近所のおかみさんをたのんで乳《ちち》を飲ました。まあ、まったくおなかが減っていたのだよ。
 やっとおなかがいっぱいになると、みんなは炉《ろ》の前へ連れて行って、着物をぬがしてみると、なにしろきれいなうすもも色をした子どもで、りっぱな産着《うぶぎ》にくるまっていた。警部《けいぶ》さんは、こりゃありっぱなうちの子をぬすんで捨《す》てたものだと言って、その着物の細かいこと、子どもの様子などをいちいち書き留《と》めて、いつどういうふうにして拾い上げたかということまで書き入れた。それでだれか世話をする者がなければ、さしずめ孤児院《こじいん》へやらなければなるまいが、こんなりっぱなしっかりした子どもだ、これを育てるのはむずかしくはない。両親もそのうちきっと探《さが》しに来るだろう。探し当てればじゅうぶんのお礼もするだろうから、と署長《しょちょう》さんがお言いなすった。このことばにひかれて、ジェロームはわたしが引き取りましょうと言ったのだよ。ちょうどそのじぶん、わたしは同い年の赤んぼうを持っていたから、二人の子どもを楽に育てることができた。ねえ、そういうわけで、わたしがおまえのおっかあになったのだよ」
「まあ、おっかあ」
「ああ、ああ、それで三月《みつき》目の末《すえ》にわたしは自分の子どもを亡《な》くした。そこでわたしはいよいよおまえがかわいくなって、もう他人の子だなんという気がしなくなりました。でもジェロームは相変《あいか》わらずそれを忘《わす》れないでいて、三年目の末になっても、両親が引き取りに来ないというので、もうおまえを孤児院《こじいん》へやると言って聞かないので困《こま》ったよ。だからなぜわたしがあの人の言うとおりにしなかった、と言われていたのをお聞きだったろう」
「まあ、ぼくを孤児院《こじいん》へなんかやらないでください」とわたしはさけんで、かの女にかじりついた。
「どうぞどうぞおっかあ、後生《ごしょう》だから孤児院へやらないでください」
「いいえ、おまえ、どうしてやるものか、わたしがよくするからね。ジェロームはそんなにいけない人ではないのだよ。あの人はあんまり苦労《くろう》をたくさんして、気むずかしくなっているだけなのだからね。まあ、わたしたちはせっせと働《はたら》きましょう。おまえも働くのだよ」
「ええ、ええ、ぼくはしろということはなんでもきっとしますから、孤児院《こいじん》へだけはやらないでください」
「おお、おお、それはやりはしないから、その代わりすぐねむると言ってやくそくをおし。あの人が帰って来て、おまえの起きているところを見るといけないからね」
 おっかあはわたしにキッスして、かべのほうへわたしの顔を向けた。
 わたしはねむろうと思ったけれども、あんまりひどく感動させられたので、静《しず》かにねむりの国にはいることができなかった。
 じゃあ、あれほど優《やさ》しいバルブレンのおっかあは、わたしのほんとうの母さんではなかったのか。するといったいほんとうの母さんはだれだろう。いまの母さんよりもっと優しい人かしら。どうしてそんなはずがありそうもない。
 だがほんとうの父さんなら、あのバルブレンのように、こわい目でにらみつけたり、わたしにつえをふり上げたりしやしないだろうと思った……。
 あの男はわたしを孤児院《こじいん》へやろうとしている。母さんにはほんとうにそれを引き止める力があるだろうか。
 この村に二人、孤児院から来た子どもがあった。この子たちは、『孤児院の子』と呼《よ》ばれていた。首の回りに番号のはいった鉛《なまり》の札《ふだ》をぶら下げていた。ひどいみなりをして、よごれくさっていた。ほかの子たちがみんなでからかって、石をぶつけたり、迷《まよ》い犬《いぬ》を追って遊ぶように追い回したりした。迷い犬にだれも加勢《かせい》する者がないのだ。
 ああ、わたしはそういう子どものようになりたくない。首の回りに番号札を下げられたくない。わたしの歩いて行くあとから、『やいやい孤児院《こじいん》のがき、やいやい捨《す》て子《ご》』と言ってののしられたくない。
 それを考えただけでも、ぞっと寒気《さむけ》がして、歯ががたがた鳴りだす。わたしはねむることができなかった。やがてバルブレンも、また帰って来るだろう。
 でも幸せと、ずっとおそくまでかれは帰って来なかった。そのうちにわたしもとろろとねむ気《け》がさして来た。


     ヴィタリス親方の一座《いちざ》

 その晩《ばん》一晩、きっと孤児院《こじいん》へ連《つ》れて行かれたゆめばかりを見ていたにちがいない。朝早く目を開いても、自分がいつもの
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