ち》や、揚げ物の油のバターをくれるルセットがいた。
 もうルセットもいない、乳《ちち》もない、バターもない、これでは、謝肉祭《しゃにくさい》もなにもないと、わたしはつまらなそうに独《ひと》り言《ごと》を言った。
 ところがおっかあはわたしをびっくりさせた。おっかあはいつも人から物を借《か》りることをしない人ではあったが、おとなりへ行って乳《ちち》を一ぱいもらい、もう一けんからバターを一かたまりもらって来て、わたしがお昼ごろうちへ帰って来ると、おっかあは大きな土《ど》なべにパン粉《こ》をあけていた。
「おや、パン粉」とわたしはそばへ寄《よ》って言った。
「ああ、そうだよ」と、おっかあはにっこりしながら答えた。「上等なパン粉だよ、ご覧《らん》、ルミ、いいかおりだろう」
 わたしはこのパン粉《こ》をなんにするのか知りたいと思ったが、それをおしてたずねる勇気《ゆうき》がなかった。それにきょうが謝肉祭《しゃにくさい》だということを思い出させて、おっかあをふゆかいにさせたくなかった。
「パン粉《こ》でなにをこさえるのだったけね」とおっかあはわたしの顔を見ながら聞いた。
「パンさ」
「それからほかには」
「パンがゆ」
「それからまだあるだろう」
「だって……ぼく知らないや」
「なあに、おまえは知っていても、かしこい子だからそれを言おうとしないのだよ。きょうが謝肉祭《しゃにくさい》で、どら焼《や》きをこしらえる日だということを知っていても、バターとお乳《ちち》がないと思って、言いださずにいるのだよ。ねえ、そうだろう」
「だって、おっかあ」
「まあとにかく、きょうのせっかくの謝肉祭《しゃにくさい》を、そんなにつまらなくないようにしたつもりだよ。このはこの中をご覧《らん》」
 わたしはさっそくふたをあけると、乳《ちち》とバターと卵《たまど》と、おまけにりんごが三つ、中にはいっていた。
 わたしがりんごをそぐ(小さく切る)と、おっかあは卵《たまご》を粉《こな》に混《ま》ぜて衣《ころも》をしらえ、乳《ちち》を少しずつ混ぜていた。
 衣がすっかり練《ね》れると、土《ど》なべのまま、熱灰《あつばい》の上にのせた。それでどら焼《や》きが焼け、揚《あ》げりんごが揚がるまでには、晩食《ばんしょく》のときまで待たなければならなかった。正直に言うと、わたしはそれからの一日が、それはそれは待ち遠しくって、何度も、何度も、おさらにかけた布《ぬの》を取ってみた。
「おまえ、衣《ころも》にかぜをひかしてしまうよ。そうするとうまくふくれないからね」とかの女はさけんだ。けれど、言うそばからそれはずんずんふくれて、小さなあわが上に立ち始めた。卵《たまご》と乳《ちち》がぷんとうまそうなにおいを立てた。
「そだを少し持っておいで」とおっかあが言った。「いい火をこしらえよう」
 とうとう明かりがついた。
「まきを炉《ろ》の中へお入れ」
 かの女がこのことばを二度とくり返すまでもなく、わたしはさっきからこのことばの出るのをいまかいまかと待ちかまえていたのであった。さっそく赤いほのおがどんどん炉《ろ》の中に燃《も》え上がり、この光が台所じゅうを明るくした。
 そのときおっかあは、揚《あ》げなべをくぎから外《はず》して火の上にのせた。
「バターをお出し」
 ナイフの先でかの女はバターをくるみくらいの大きさに一きれ切ってなべの中へ入れると、じりじりとけ出してあわを立てた。
 もうしばらくこのにおいもかがなかった。まあ、そのバターのいいにおいといったら。
 わたしがそのじりじりこげるあまい音楽にむちゅうで聞きほれていたとき、裏庭《うらにわ》でこつこつ人の歩く足音がした。
 せっかくのときにだれがじゃまに来たのだろう。きっとおとなりからまきをもらいに来たのだ。
 わたしはそんなことに気を取られるどころではなかった。ちょうどそのときバルブレンのおっかあが、大きな木のさじをはちに入れて、衣《ころも》を一さじ、おなべの中にあけていたのだもの。
 するとだれかつえでことことドアをたたいた。ばたんと戸が開け放された。
「どなただね」とおっかあはふり向きもしないでたずねた。
 一人の男がぬっとはいって来た。明るい火の光で、わたしはその男が大きなつえを片《かた》わきについているのを見つけた。
「やれやれ、祭りのごちそうか。まあ、やるがいい」とその男はがさつな声で言った。
「おやおやまあ」とバルブレンのおっかあが、あわててさげなべを下に置《お》いてさけんだ。
「まあジェローム、おまえさんだったの」
 そのときおっかあはわたしのうでを引《ひ》っ張《ぱ》って、戸口に立ちはだかったままでいた男の前へ連《つ》れて行った。
「おまえのとっつぁんだよ」


     養父《ようふ》

 おっかあはご亭主《ていしゅ》にだきついた。わたしもそのあとから同じことをしようとすると、かれはつえをつき出してわたしを止めた。
「なんだ、こいつは……おめえいまなんとか言ったっけな」
「ええ、そう、でも……ほんとうはそうではないけれど……そのわけは……」
「ふん、ほんとうなものか。ほんとうなものか」
 かれはつえをふり上げたままわたしのほうへ向かって来た。思わずわたしは後じさりをした。
 なにをわたしがしたろう。なんの罪《つみ》があるというのだ。わたしはただだきつこうとしたのだ。
 わたしはおずおずかれの顔を見上げたが、かれはおっかあのほうをふり向いて話をしていた。
「じゃあ感心に謝肉祭《しゃにくさい》のお祝《いわ》いをするのだな、まあけっこうよ。おれは腹《はら》が減《へ》っているのだ。晩飯《ばんめし》はなんのごちそうだ」とかれは言った。
「どら焼《や》きとりんごの揚《あ》げ物《もの》をこしらえているところですよ」
「そうらしいて。だが何里も遠道《とおみち》をかけて来た者に、まさかどら焼《や》きでごめんをこうむるつもりではあるまい」
「ほかになんにもないんですよ。なにしろおまえさんが帰るとは思わなかったからね」
「なんだ、なんにもない。夕飯《ゆうはん》にはなにもないのか」とかれは台所を見回した。
「バターがあるぞ」
 かれは天井《てんじょう》をあお向いて見た。いつも塩《しお》ぶたがかかっていたかぎが目にはいったが、そこにはもう長らくなんにもかかってはいなかった。ただねぎとにんにくが二、三本なわでしばってつるしてあるだけであった。
「ねぎがある」とかれは言って、大きなつえでなわをたたき落とした。「ねぎが四、五本にバターが少しあれば、けっこうなスープができるだろう。どら焼《や》きなぞは下ろして、ねぎをなべでいためろ」
 どら焼きをなべから出してしまえというのだ。
 でも一言も言わずにバルブレンのおっかあはご亭主《ていしゅ》の言うとおりに、急いで仕事に取りかかった。ご亭主は炉《ろ》のすみのいすにこしをかけていた。
 わたしはかれがつえの先で追い立てた場所から、そのまま動き得《え》なかった。食卓《しょくたく》に背中《なか》を向けたまま、わたしはかれの顔を見た。
 かれは五十ばかりの意地悪らしい顔つきをした、ごつごつした様子の男であった。その頭はけがをしたため、少し右の肩《かた》のほうへ曲がっていた。かたわになったので、よけいこの男の人相《にんそう》を悪くした。
 バルブレンのおっかあはまたおなべを火の上にのせた。
「おめえ、それっぱかりのバターでスープをこしらえるつもりか」とかれは言いながら、バターのはいったさらをつかんで、それをみんななべの中へあけてしまった。もうバターはなくなった……それで、もうどら焼《や》きもなくなったのだ。
 これがほかの場合だったら、こんな災難《さいなん》に会えば、どんなにくやしかったかしれない。だが、わたしはもうどら焼《や》きもりんごの揚《あ》げ物《もの》も思わなかった。わたしの心の中にいっぱいになっている考えは、こんなに意地の悪い男が、いったいどうしてわたしの父親だろうかということであった。
「ぼくのとっつぁん」――うっとりとわたしはこのことばを心の中でくり返した。
 いったい父親というものはどんなものだろう、それをはっきりと考えたことはなかった。ただぼんやり、それはつまり、母親の声の大きいのくらいに考えていた。ところが、いま天から降《ふ》って来たこの男を見ると、わたしはひじょうにいやだったし、こわらしかった(おそろしかった)。
 わたしがかれにだきつこうとすると、かれはつえでわたしをつきのけた。なぜだ。これがおっかあなら、だきつこうとする者をつきのけるようなことはしなかった。どうして、おっかあはいつだってわたしをしっかりとだきしめてくれた。
「これ、でくのぼうのようにそんな所につっ立っていないで、来て、さらでもならべろ」とかれは言った。
 わたしはあわててそのとおりにしようとして、危《あぶ》なくたおれそこなった。スープはでき上がった。バルブレンのおっかあはそれをさらに入れた。
 するとかれは炉《ろ》ばたから立ち上がって、食卓《しょくたく》の前にこしをかけて食べ始めた。合い間合い間には、じろじろわたしの顔を見るのであった。わたしはそれが気味が悪くって、食事がのどに通らなかった。わたしも横目でかれを見たが、向こうの目と出会うと、あわてて目をそらしてしまった。
「こいつはいつもこのくらいしか食わないのか」とかれはふいにこうたずねた。
「きっとおなかがいいんですよ」
「しょうがねえやつだなあ。こればかりしかはいらないようじゃあ」
 バルブレンのおっかあは話をしたがらない様子であった。あちらこちらと働《はたら》き回って、ご亭主《ていしゅ》のお給仕《きゅうじ》ばかりしていた。
「てめえ、腹《はら》は減《へ》らねえのか」
「ええ」
「うん、じゃあすぐとこへはいってねろ。ねたらすぐねつけよ。早くしないとひどいぞ」
 おっかあはわたしに、なにも言わずに言うとおりにしろと目で知らせた。しかしこの警告《けいこく》を待つまでもなかった。わたしはひと言も口答えをしようとは思わなかった。
 たいていのびんぼう人の家がそうであるように、わたしたちの家の台所も、やはり寝部屋《ねべや》をかねていた。炉《ろ》のそばには食事の道具が残《のこ》らずあった。食卓《しょくたく》もパンのはこもなべも食器《しょっき》だなもあった。そうして、部屋《へや》の向こうの角《かど》が寝部屋であった。一方の角にバルブレンのおっかあの大きな寝台《ねだい》があった。その向こうの角のくぼんだおし入れのような所にわたしの寝台があって、赤い模様《もよう》のカーテンがかかっていた。
 わたしは急いでねまきに着かえて、ねどこにもぐりこんだ。けれど、とても目がくっつくものではなかった。わたしはひどくおどかされて、ひじょうにふゆかいであった。
 どうしてこの男がわたしのとっつぁんだろう。ほんとうにそうだったら、なぜ人をこんなにひどくあつかうのだろう。
 わたしは鼻をかべにつけたまま、こんなことを考えるのはきれいにやめて、言いつかったとおり、すぐねむろうと骨《ほね》を折《お》ったがだめだった。まるで目がさえてねつかれない。こんなに目のさえたことはなかった。
 どのくらいたったかわからないが、しばらくしてだれかがわたしの寝台《ねだい》のそばに寄《よ》って来た。そろそろと引きずるような重苦しい足音で、それがおっかあでないということはすぐにわかった。
 わたしはほおの上に温かい息を感じた。
「てめえ、もうねむったのか」とするどい声が言った。
 わたしは返事をしないようにした。「ひどいぞ」と言ったおそろしいことばが、まだ耳の中でがんがん聞こえていた。
「ねむっているんですよ」とおっかあが言った。「あの子はとこにはいるとすぐに目がくっつくのだから、だいじょうぶなにを言っても聞こえやしませんよ」
 わたしはむろん、「いいえ、ねむっていません」と言わねばならないはずであったが、言えなかった。わたしはねむれと言いつけられた。それをまだねむらずにいた。わたしが悪かった。
「それでおまえさん、裁判
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