》い声《ごえ》で、しかしその答えはじゅうぶんであった。みんなは親方に賛成《さんせい》して巡査《じゅんさ》を嘲弄《ちょうろう》した。とりわけジョリクールがかげでしかめっ面《つら》をするのをおもしろがっていた。このさるは『権力《けんりょく》が代表せられる令名《れいめい》高き閣下《かっか》』の真後《まうし》ろに座《ざ》をかまえてこっけいなしかめっ面をして見せていた。巡査《じゅんさ》は両うでを組んで、それからまた放して、げんこつをこしに当てて、頭を後ろに反《そ》らせていた。そのとおりをさるはやっていた。見物人らはおかしがって、きゃっきゃっと言っでいた。
 巡査はそのときふとなにをおもしろがっているのか見ようとして後ろをふり向いた。するとしばらくのあいださると人間とはたがいににらみ合わなければならなくなった。どちらが先に目をふせるか問題であった。
 群衆《ぐんしゅう》はおもしろがって金切り声を上げていた。
「きさまの飼《か》い犬《いぬ》があすも口輪《くちわ》をしていなかったらすぐきさまを拘引《こういん》する。それだけを言いわたしておく」
「さようなら閣下《かっか》。ごきげんよろしゅう。いずれ明日」と親方は言って頭を下げた。
 巡査《じゅんさ》が大またに出て行くと、親方はこしをほとんど地べたにつくほどに曲げて、からかい面《づら》に敬礼《けいれい》していた。そして芝居《しばい》は続《つづ》けて演《えん》ぜられた。
 わたしは親方が犬の口輪《くちわ》を買うかと思っていたけれども、かれはまるでそんな様子はなかった。その晩《ばん》は巡査とけんかをしたことについては一|言《ごん》の話もなしに過《す》ぎた。
 わたしはとうとうがまんがしきれなくなって、こちらからきりだした。
「あしたもしカピが芝居《しばい》の最中《さいちゅう》に、口輪《くちわ》を食い切るようなことがあるといけませんから、まえからそれをはめておいて慣《な》らしてやらないでもいいでしょうか。わたしたちはカピによくはめているように教えこむことができるでしょう」
「おまえはあれらの小さな鼻の上にそんな物をのせたいとわたしが思っているというのか」
「でも巡査《じゅんさ》がやかましく言いますから」
「おまえはんのいなかの子どもだな。百姓《ひゃくしょう》らしくおまえは巡査をこわがっているのか。心配するなよ。わたしはあしたうまい具合に取り計らって、巡査がわたしをつかまえることのできないようにするし、そのうえ犬がふゆかいな目に会わないようにしてやるつもりだ。それに見物も少しはうれしがるだろう。この巡査《じゅんさ》はおかげでわたしたちによけいな金もうけをさせてくれることになるだろう。おまけにあいつは、わたしがあいつのためにしくんでおいた芝居《しばい》で道化役《どうけやく》を演《えん》じることになるだろう。さてあしたは、おまえはあそこへジョリクールだけを連《つ》れて行くのだ。おまえはなわ張《ば》りをして、ハーブで二、三回ひくのだ。やがておおぜい見物が集まって来れば、巡査《じゅんさ》めさっそくやって来るだろう。そこへわたしは犬を連《つ》れて現《あらわ》れることにする。それから茶番が始まるのだ」
 わたしはそのあくる日一人で行きたいことは少しもなかったけれども、親方の言うことには服従《ふくじゅう》しなければならないと思った。
 さてわたしはいつもの場所へ出かけて、囲《かこ》いのなわを回してしまうと、さっそく曲をひき始めた。見物はぞろぞろほうぼうから集まって来て、なわ張《ば》りの外に群《むら》がった。
 このごろではわたしもハープをひくことを覚《おぼ》えたし、なかなかじょうずに歌も歌った。とりわけわたしはナポリ小唄《こうた》を覚《おぼ》えて、それがいつも大かっさいを博《はく》した。けれどもきょうだけは見物がわたしの歌をほめるために来たのでないことはわかっていた。
 きのう巡査《じゅんさ》との争論《そうろん》を見物した人たちは残《のこ》らず出て来たし、おまけに友だちまで引《ひ》っ張《ぱ》って来た。いったいツールーズの土地でも巡査はきらわれ者になっていた。それで公衆《こうしゅう》はあのイタリア人のじいさんがどんなふうにやるか。「閣下《かっか》、いずれ明日」と言った捨《す》てぜりふの意味がなんであったか、それを知りたがっていたのである。
 それで見物の中には、わたしがジョリクールと二人だけなのを見て、わたしの歌っている最中《さいちゅう》口を入れて、イタリアのじいさんは来るのかと言ってたずねる者もあった。
 わたしはうなずいた。
 親方は来ないで、先に巡査《じゅんさ》がやって来た。ジョリクールがまっ先にかれを見つけた。
 かれはさっそくげんこつをこしの上に当てて、こっけいないばりくさった様子で、大またに歩き回った。群衆《ぐんしゅう》はかれの道化芝居《どうけしばい》をおかしがって手をたたいた。
 巡査はこわい目つきをしてわたしをにらみつけた。
 いったいこの結末《けつまつ》はどうなるだろう。わたしは少し心配になってきた。ヴィタリス親方がいてくれれば、巡査《じゅんさ》に答えることもできよう。巡査がわたしに立ちのけと命令《めいれい》したら、わたしはなんと言えばいいのだ。
 巡査《じゅんさ》はなわ張《ば》りの外を行ったり来たりしていた。それもわたしのそばを通るときには、なんだか肩《かた》ごしにわたしをにらみつけるようにした。それでいよいよわたしは気が気でなかった。
 ジョリクールは事件《じけん》の重大なことを理解《りかい》しなかった。そこでおもしろ半分なわ張《ば》りの中で巡査《じゅんさ》とならんで歩きながら、その一挙一動《いっきょいちどう》を身ぶりおかしくまねていた。おまけにわたしのそばを通るときには、やはり巡査のするように首を曲げて、肩《かた》ごしににらみつけた。その様子がいかにもこっけいなので、見物はなおのことどっと笑《わら》った。
 わたしはあんまりやりすぎると思ったから、ジョリクールを呼《よ》び寄《よ》せた。けれどもかれはとても言うことを聞くどころではなかった。わたしがつかまえようとすると、ちょろちょろにげ出して、す早く身をかわしては、相変《あいか》わらずとことこ歩いていた。
 どうしてそんなことになったかわからなかったが、たぶん巡査《じゅんさ》はあんまり腹《はら》を立てて気がちがったのであろう。なんでもわたしがさるをけしかけているように思ったとみえて、いきなりなわ張《ば》りの中へとびこんで来た。
 と思うまにかれはとびかかって来て、ただ一打ちでわたしを地べたの上にたたきたおした。
 わたしが目を開いて起き上がろうとすると、ヴィタリス老人《ろうじん》はどこからとび出して来たものか、もうそこに立っていた。かれはちょうど巡査《じゅんさ》のうでをおさえたところであった。
「わたしはあなたがその子どもを打つことを止めます。なんというひきょうなまねをなさるのです」とかれはさけんだ。
 しばらくのあいだ二人の人間はにらみ合って立っていた。
 巡査《じゅんさ》はおこってむらさき色になっていた。
 親方はどうどうとした様子であった、かれは例《れい》の美しいしらが頭をまっすぐに上げて、その顔には憤慨《ふんがい》と威圧《いあつ》の表情《ひょうじょう》がうかべていた。その顔つきを見ただけで巡査を地の下にもぐりこませるにはじゅうぶんであった。
 けれどもかれはどうして、そんなことはしなかった。かれは両うでを広げて親方ののど首をつかまえて、乱暴《らんぼう》に前へおし出した。
 ヴィタリス親方はよろよろとしてたおれかけたが、す早く立ち直って、平手で巡査のうで首を打った。
 親方はがんじょうな人ではあったが、なんといっても老人《ろうじん》であった。巡査《じゅんさ》のほうは年も若いし、もっとがんじょうであった。このけんかがどうなるか、長くは取っ組めまいと、わたしははらはらしていた。
 けれども取っ組むまでにはならなかった。
「あなたはどうしようというのです」
「わたしといっしょに来い」と巡査《じゅんさ》は言った。「拘引《こういん》するのだ」
「なぜあの子を打ったのです」と親方は質問《しつもん》した。
「よけいなことを言うな。ついて来い」
 親方は返事をしないで、わたしのほうをふり向いた。
「宿屋《やどや》へ帰っておいで」とかれは言った。「犬といっしょに待っておいで。あとで口上《こうじょう》で言って寄《よ》こすから(ことずてをするから)」
 かれはそのうえもうなにも言う機会《きかい》がなかった。巡査《じゅんさ》はかれを引きずって行った。
 こんなふうにして、親方が余興《よきょう》にしくんだ狂言《きょうげん》はあっけなく結末《けつまつ》がついた。
 犬たちは初《はじ》め主人のあとについて行こうとしたけれども、わたしが呼《よ》び返すと、服従《ふくじゅう》に慣《な》らされているので、かれらはわたしのほうへもどって来た。気をつけてみるとかれらは口輪《くちわ》をはめていた。けれどもそれはふつうの金あみや金輪《かなわ》ではなくって、ただ細い絹糸《きぬいと》を二、三本、鼻の回りに結《むす》びつけて、あごの下にふさを垂《た》らしてあった。白いカピは赤い糸を結《むす》んでいた。黒いゼルビノは白い糸を結んでいた。そうしてねずみ色のドルスは水色の糸を結んでいた。気のどくな親方はこんなふうにして、いかめしい権力《けんりょく》の命令《めいれい》を逆《ぎゃく》に喜劇《きげき》の種《たね》に利用《りよう》しようとしていたのである。
 群衆《ぐんしゅう》はさっそく散《ち》ってしまった。二、三人ひま人《じん》が残《のこ》っていまの事件《じけん》を論《ろん》じ合っていた。
「あのじいさんがもっともだよ」
「いや、あの男がまちがっている」
「なんだって巡査《じゅんさ》は子どもを打ったのだ。子どもはなにもしやしなかった。ひと言だって口をききはしなかった」
「とんだ災難《さいなん》さ。巡査に反抗《はんこう》したことを証明《しょうめい》すれば、あのじいさんは刑務所《けいむしょ》へやられるだろう、きっと」
 わたしはがっかりして宿屋《やどや》へ帰った。
 わたしはこのころでは毎日だんだんと親方が好《す》きになっていた。わたしたちは朝から晩《ばん》までいっしょにくらしてきた。どうかすると夜から朝までも同じわらのねどこにねむっていた。どんな父親だって、かれがわたしに見せたような行《ゆ》き届《とど》いた注意をその子どもに見せることはできなかった。かれはわたしに字を読むことも、計算することも教えてくれたし、歌を歌うことも教えてくれた。長い流浪《るろう》の旅のあいだに、かれはこのことあのことといろいろにしこんでくれた。たいへん寒い日には、毛布《もうふ》を半分わけてくれたし、暑い日にはいつもわたしの代わりに荷物をかついでくれた。それから食事のときでもかれはけっして、自分がいい所を食べて悪い所をわたしにくれるというようなことはしなかった。それどころか、かれはいい所も悪い所も同じように分けてくれた。なるほどときどきはわたしがいやなほど、ひどく乱暴《らんぼう》に耳を引《ひ》っ張《ぱ》ることもあったけれど、わたしに過失《かしつ》があれば、それもしかたがなかった。一|言《ごん》で言えばわたしはかれを愛《あい》していたし、かれはわたしを愛していた。
 だからこの別《わか》れはわたしにはなによりつらいことであった。
 いつまたいっしょになれるだろうか。
 いったいどのくらい牢屋《ろうや》へ入れておくつもりなのだろう。
 そのあいだわたしはどうしたらいいだろう。どうして生きてゆこう。
 ヴィタリス親方はいつもからだに金《かね》をつけている習慣《しゅうかん》であった。それが引《ひ》っ張《ぱ》られて行くときになにもわたしに置《お》いて行くひまがなかった。
 わたしはかくしに五、六スーしか持っていなかった。それだけでジョリクールと犬とわたしの食べるだけの物が買えようか。
 わたしはそれから二日のあいだ、宿屋《やど
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