いうのであろう。
やがてかれはわたしのすぐそばのわらの上に転《ころ》げて、それはごく静《しず》かにわたしの手をなめ始めた。
わたしもうれしくなって、わらのとこの上に半分起き返って、犬の首を両うでにかかえて、その冷《つめ》たい鼻にキッスした。かれはわずか息のつまったような泣《な》き声《ごえ》を立てたが、やがて手早く前足をわたしの手に預《あず》けて、じつとおとなしくしていた。
わたしはつかれも悲しみも忘《わす》れた。息苦しいのどがからっとして、息がすうすうできるようになった。ああ、わたしはもう一人ではなかった。わたしには友だちがあった。
初舞台《はつぶたい》
そのあくる日は早く出発した。
空は青あおと晴れて、夜中のから風がぬかるみをかわかしてくれた。小鳥が林の中でおもしろそうにさえずっていた。三びきの犬はわたしたちの回りにもつれていた。ときどきカピが後足で立ち上がって、わたしの顔を見ては二、三度|続《つづ》けてほえた。かれの心持ちはわたしにはわかっていた。
「元気を出せ、しっかり、しっかり」
こう言っているのであった。
かれはりこうな犬であった。なんでもわかるし、人にわからせることも知っていた。この犬の尾《お》のふり方にはたいていの人の舌《した》や口で言う以上《いじょう》の頓知《とんち》と能弁《のうべん》がふくまれていた。わたしとカピの間にはことばは要《い》らなかった。初《はじ》めての日からおたがいの心持ちはわかっていた。
わたしはこれまで村の外には出たことがなかったし、初《はじ》めて町を見るのはなにより楽しみであった。
でもユッセルの町は子どもの目にそんなに美しくはなかったし、それに町の塔《とう》や古い建物《たてもの》などよりも、もっと気になるのはくつ屋の店であった。
老人《ろうじん》がやくそくをしたくぎを打ったくつのある店はどこだろう。
わたしたちがユッセルの古い町を通って行ったとき、わたしはきょろきょろそこらを見回した。ふと老人は市場《いちば》の後ろの一けんの店にはいった。店の外に古い鉄砲《てっぽう》だの、金モールのへりのついた服だの、ランプだの、さびたかぎだのがつるしてあった。
わたしたちは三段《だん》ほど段を下りてはいってみると、それはもう屋根がふけてからのち、太陽の光がついぞ一度もさしこまなかったと思われる大きな部屋《へや》にはいった。
くぎを打ったくつなんぞを、どうしてこんな気味の悪い所で売っているだろう。
けれども老人《ろうじん》にはわかっていた。それでまもなくわたしは、これまでの木ぐつの十倍《ばい》も重たい、くぎを打ったくつをはくことになった。うれしいな。
老人の情《なさ》けはそれだけではなかった。かれはわたしに水色ビロードの上着と、毛織《けお》りのズボンと、フェルトぼうしまで買ってくれた。かれのやくそくしただけの品は残《のこ》らずそろった。
まあ、麻《あさ》の着物のほか着たことのなかったわたしにとって、ビロードの服のめずらしかったこと。それにくつは。ぼうしは。わたしはたしかに世界じゅうでいちばん幸福な、いちばん気前のいい大金持ちであった。ほんとうにこの老人《ろうじん》は世界じゅうでいちばんいい人でいちばん情《なさ》け深い人だと思われた。
もっともそのビロードは油じみていたし、毛織《けお》りのズボンはかなり破《やぶ》れていた。それにフェルトぼうしのフェルトもしたたか雨によごれて、もとの色がなんであったかわからないくらいであった。けれどもわたしはむやみにうれしくって、品物のよしあしなどはわからなかった。
ところで宿屋《やどや》に帰ってから、さっそくこのきれいな着物を着たいとあせっていたわたしをびっくりさせもし、つまらなくもさせたことは、老人《ろうじん》がはさみでそのズボンのすそをわたしのひざの長さまで切ってしまったことであった。
わたしは丸い目をしてかれの顔を見た。
「これはおまえをほかの子どもと同じように見せないためだよ。フランスではおまえはイタリアの子どものようなふうをするのだ。イタリアではフランスの子どものようなふうをするのだ」とかれは説明《せつめい》した。
わたしはいよいよびっくりしてしまった。
「わたしたちは芸人《げいにん》だろう。なあ。それだから当たり前の人のようなふうをしてはならないのだ。われわれがここらのいなかの人間のようなふうをして歩いたら、だれが目をつけると思うか。わたしたちはどこでも立ち止まれば、回りに人を集めなければならない。困ったことには、なんでもていさいを作るということが、この世の中でかんじんなことなのだよ」
こういうわけで、わたしは朝まではフランスの子どもであったが、その晩《ばん》はもうイタリアの子どもになっていた。
ズボンは
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