と、なぜぼくがうちで晩飯《ばんめし》をもらわずに平気で出て行くか、そのわけを初《はじ》めて知った。それからはぼくにうちで留守番《るすばん》させて、このスープの見張《みは》りを言いつけた。毎朝出て行くまえに肉と野菜《やさい》をなべに入れて、ふたに錠《じょう》をかってしまう。そしてぼくのすることはそのにえたつのを見るだけだ。ぼくはスープのにおいをかいでいる。だがそれだけだ。スープのにおいでは腹《はら》は張《は》らない。どうしてよけい空腹《くうふく》になる。ぼくはずいぶん青いかい。ぼくはもう外へ出ないから、みんながそう言うのを聞かないし、ここには鏡《かがみ》もないのだからわからない」
「きみはほかの人よりかよけい青いとは思えないよ」とわたしは言った。
「ああ、きみはぼくを心配させまいと思ってそう言うのだ。けれどぼくはもっともっと青くなって、早く病気になるほうがうれしいのだ。ぼくはひじょうに悪くなりたいのだ」
 わたしはあきれて、かれの顔をながめた。
「きみはわからないのだ」とかれはあわれむような微笑《びしょう》をふくんで言った。「ひどく加減《かげん》が悪くなればみんなが世話をしてくれる。さもなければ死なせてくれる。ぼくを死なせてくれればなにもかもおしまいだ。もう腹《はら》を減《へ》らすこともないし、ぶたれることもないだろう。それにぼくたちは死ねば天にのぼって神様といっしょに住むことになるのだ。そうだ、そうなればぼくは天にのぼって、上から母さんや、クリスチーナを見下ろすことができる。神様にたのんで妹を不幸《ふしあわ》せにしないようにしてもらうこともできる。だからぼくは病院へやられればうれしいと思うよ」
 病院――というとわたしはむやみにおそろしい所だと思いこんでいた。わたしはいなか道を旅をして来たあいだ、どんなに気分が悪く思うときでも、病院へやられるかもしれないと思い出すといつでも力が出て、無理《むり》にも歩いたものだった。マチアのこういうことばにわたしはおどろかずにはいられなかった。
「ぼくはいまではずいぶんからだの具合が悪くなっている。だがまだガロフォリのじゃまになるほど悪くはなっていない」と、かれは弱い、ひきずるような声で話を続《つづ》けた。「でもぼくはだんだん弱くなってきたよ。ありがたいことにガロフォリはまるっきりぶつことをやめずにいる。八日まえにもぼくの頭をうんとひどくぶった。おかげでこのとおりはれ上がった。見たまえ、この大きなこぶを。あいつはきのうぼくに、これはできものだと言った。そう言ったあの人の様子はなんだかまじめだった。おそろしく痛《いた》むのだ。夜になるとひどく目がくらんでまくらに頭をつけるとぼくはうなったり泣《な》いたりする。それがほかの子どものじゃまになるのをガロフォリはひどくきらっている。だから二日か三日のうちにいよいよあの人もぼくを病院へやることに決めるだろうと思う。ぼくは先《せん》に慈恵病院《じけいびょういん》にいたことがある。お医者さんはかくしに安いお菓子《かし》をいつも入れているし、看護婦《かんごふ》の尼《あま》さんたちがそれは優《やさ》しく話をしてくれるよ。こう言うんだ。ぼうや、舌《した》をお出しとか、いい子だからねとかなんでもなにかしたいたんびに、『ああ、おしよ』と言ってくれる。それがうちにいる母さんと同じ調子なんだ。ぼくはどうも今度は病院へ行くほど悪くなっていると思う」
 かれはそばへ寄《よ》って来て、大きな目でじっとわたしを見た。わたしはかれの前に真実《しんじつ》をかくす理由はなかったが、しかしかれの大きなぎょろぎょろした目や、くぼんだほおや、血の気《け》のないくちびるがどんなにおそろしく見えるかということを、かれに語ることを好《この》まなかった。
「きみは病院へ行かなければならない。ずいぶん悪いと思うよ」
「いよいよかね」
 かれは足を引きずりながらのろのろ食卓《しょくたく》のほうへ行って、それをふき始めた。
「ガロフォリがまもなく帰って来る」とかれは言った。「ぼくたちはもう話をしてはいけない。もうこれだけぶたれているのだ。このうえよけいなぐられるのは損《そん》だからね。なにしろこのごろいただくげんこは先《せん》よりもずっと効《き》くからね。人間はなんでも慣《な》れっこになるなんて言うが、それはお人よしの言うことだよ」
 びっこひきひきかれは食卓《しょくたく》の回りを回って、さらやさじならべた。勘定《かんじょう》すると二十|枚《まい》さらがあった。そうするとガロフォリは二十人の子どもを使っているのだ。でも寝台《ねだい》は十二しか見えなかったから、かれらのある者は一つの寝台に二人ねむるのだ。それにとにかくなんという寝台であろう。なんというかけ物であろう。かけ物の毛布《もうふ》はうまやから、もう
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