《だん》といい、いよいよわたしを安心させる性質《せいしつ》のものではなかった。いったい今度の親方というのはどんな男であろう。
四階のてっぺんに上がって、ドアをたたくことなしに親方はすぐ前のドアをおし開けて、穀物倉《こくもつぐら》のような大きな屋根裏《やねうら》の部屋《へや》にはいった。部屋のまん中はがらんとしていて、四方のかべにぐるりと寝台《ねだい》みんなで十二ならべてあった。一度は白かったことのあるかべと天井が、いまではけむりとすすとちりでよごれきって、なんとも知れない色をしていた。かべの上にはすみで人間の首だの、花や鳥だのが落書きしてあった。
「ガロフォリさん、いるのかい」と親方がたずねた。「あんまり暗くってだれも見えない。ヴィタリスだよ」
かべにかけたうす暗いランプの明かりですかすと、部屋《へや》にはだれもいないらしかった。すると弱いのろのろした声が、親方のことばに答えた。
「ガロフォリさんは出かけましたよ。二時間ほどしなければ帰りませんよ」
こう言いながら十三ばかりの子どもが出て来た。わたしはその子のきみょうな様子におどろいた。いまでもそのとき見たとおりを目にうかべることができる。いわば胴体《どうたい》がなくって、足からすぐ首が生えているように見えた。その大きな頭は、まるでつり合いもなにもとれていなかった。そんなふうなからだつきでけっしてりっぱとは言えなかったが、その顔にはしかしきみょうに人をひきつけるものがあった。悲しみと優《やさ》しみの表情《ひょうじょう》、そしてそれから……たよりなげな表情であった。かれの大きな目は同情《どうじょう》をふくんで、相手《あいて》の目をひきつけずにはおかないのであった。
「確《たし》かに二時間すれば帰って来るのかね」と親方がたずねた。
「確かですよ。もう昼飯《ひるめし》の時間ですからね。ここで食べるのはガロフォリさんばかりですから」
「そうかい。もしそのまえに帰って来たら、ヴィタリスという人が来て、二時間たつとまた来ると言って帰ったと言ってください」
「かしこまりました」
わたしも親方について行こうとすると、かれはわたしを止めた。
「おまえはここにおいで」とかれは言った。「少し休んでいるがいい」
「…………」
「おお、わたしは帰って来るよ」とかれはわたしの心配そうな顔つきを見て安心させるようにまた言った。わたしは例《れい》の服従《ふくじゅう》の習慣《しゅうかん》から、それをいやとは言えなかった。
「きみはイタリア人かい」
親方の重い足音がもうはしご段《だん》の上に聞こえなくなったときに、イタリア語で子どもがたずねた。親方といっしょにいるあいだにわたしはイタリア語がぽつぽつわかっていたが、まだ自由には使えなかった。
「いいえ」と、わたしはフランス語で答えた。
「おやおや、つまらないなあ。きみがイタリアだといいんだがなあ」とかれは大きな目で見ながら、ほんとにつまらなそうに言った。
「きみはどこ」
「リュッカだよ。きみもそうだと、いろいろ聞きたいと思ったのだ」
「ぼくはフランス人です」
「そう、それはいいね」
「おや、きみはイタリア人よりも、フランス人のほうが好《す》きなの」
「おお、そうじゃない。ぼくがそれはいいねと言ったのは、きみのことを考えて言ったのだ。だってきみがイタリア人だったら、きっとガロフォリ親方に使われにここへやって来たのだろうから、そうすると気のどくだと思ってね」
「じゃあ、あの人悪い人なんですか」
子どもは答えなかった。けれどわたしにあたえた目つきはことばよりも多くを語った。かれはこの話を続《つづ》けるのを好《この》まないように炉《ろ》のほうへ行った。炉のたなの上に大きななべがあった。わたしは火に当たろうと思ってそばへ寄《よ》ると、このなべがなんだか変《か》わった形をしているのに気がついた。なべのふたにはまっすぐな管《くだ》がつき出して、蒸気《じょうき》がぬけるようになっていた。そのふたはちょうつがいになっていて、一方には錠《じょう》がかかっていた。
「なぜ錠ががかっているの」と、わたしはふしぎそうにたずねた。
「ぼくがスープを飲まないようにさ。ぼくはなべの番を言いつかっているけれど、親方はぼくを信用《しんよう》しないのだ」
わたしはほほえまずにはいられなかった。
するとかれは悲しそうに言った。
「きみは笑《わら》うね。ぼくが食いしんぼだと思うからだろう。でもきっときみがぼくの境遇《きょうぐう》だったら、ぼくと同じことをしたかもしれないよ。ぼくはぶたではないけれど、腹《はら》が減《へ》っている。だからなべの口からスープのにおいがたてば、ますます腹が減ってくるのだ」
「ガロフォリさんはきみにじゅうぶん食べるものをくれないの」
「ああ、それが罰《ばつ》なんだ…
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