わたしにも言うことはあった。だが親方は「勇気《ゆうき》を持て」とわたしに求《もと》めた。わたしはこのうえかれに苦労《くろう》を加《くわ》えることを望《のぞ》まなかった。けれどつらいことであった。かれと別《わか》れるのはまったくつらいことであった。
かれも重ねてわたしに泣《な》きつかれるのがうるさいと思ったように、かまわずどんどん歩きだした。わたしは引きずられるようにして後に続《つづ》いた。
わたしはその後について行くと、まもなく橋をわたって川をこした。その橋はこのうえなくきたなくって、どろが深く積《つ》もっていた。その上を黒い石炭くずのような雪がかぶさって、そこにふみこむとくるぶしまでずぶりとはいった。
橋のたもとからは、村|続《つづ》きでせまい宿場《しゅくば》があった。村がつきると、また野原になって、野原にはこぎたない家が散《ち》らばっていた。往来《おうらい》には荷車がしじゅう行ったり来たりしていた。わたしは、親方の右手に寄《よ》りそって歩いた。カピは後からついて来た。
いよいよ野原がおしまいになって、わたしたちは果《は》てしのない長い町の中にはいった。両側《りょうがわ》には見わたすかぎり家が建《た》てこんでいた。それもボルドーや、ツールーズや、リヨンなどに比《くら》べては、ずっとびんぼうらしいあわれな小家《こいえ》ばかりであった。
雪がほうぼうにうず高く積《つ》み上げられていて、黒く固《かた》まったかたまりの上に、灰《はい》やくさった野菜《やさい》や、いろいろのきたない廃物《はいぶつ》が投げ捨《す》てられてあった。空気はいやなにおいにむせるようであった。その中を荷車がごろごろ通って行くが、人びとはそれをうまくかわしかわし歩いていた。
「ここはどこです」とわたしは言った。
「パリだよ」
どこに大理石のうちがあるか。それから黄金の木が。そしてりっぱに着かざった人たちが。これが見たい見たいとあこがれていたパリであったか。わたしはこんな場所で、親方に別《わか》れて……カピに別れて、この冬じゅうくらさなければならなかったのか。
ルールシーヌ街《まち》の親方
いま、わたしのぐるりを取《と》り巻《ま》いているものは、気味の悪いものばかりであったが、わたしはいっしょうけんめい好奇《こうき》のの目を見張《みは》って新しい周囲《しゅうい》を見回した。そのためにいまの身の上にさしせまっただいじのことは忘《わす》れるくらいであった。
パリの町の中に深くはいればはいるほど、見るものごとにわたしの幼《おさな》い夢想《むそう》とだんだんへだたるようになった。こおりついたみぞからは、なんともいえないくさいいきれが立っていた。雪と氷がいっしょにとけて固《かた》まったいうす黒いどろが、荷車の輪《わ》にはねとばされて、そこらの小店のガラス戸に厚板《あついた》のようにへばりついていた。確《たし》かにパリはボルドーにもおよばなかった。
これまで通って来た町に比《くら》べては、だいぶんりっぱな広い町で、いくらかきれいな店もならんだ通りを長いこと歩いて、親方はついと右へ曲がると、急にみすぼらしい町に出た。高い黒い家のならんだまん中に、例《れい》のいやなにおいのするどぶがあった。たくさんある居酒屋《いざかや》の店先で、おおぜいの男女ががやがや言いながら、お酒を飲んでいた。
町の角には、ルールシーヌ街《まち》と書いた札《ふだ》が打ってあった。
親方は案内《あんない》を知っているらしくせまい通りにこみ合う往来《おうらい》の人の群《む》れを分けて進んだ。わたしはそのそばに寄《よ》りそって歩いた。
「おい、気をつけて、わたしの姿《すたが》を見失《みうしな》わないように」と親方が注意した。けれどかれの注意は必要《ひつよう》がなかった。なぜといって、わたしはかれの後にくっついて歩いたうえ、おまけにかれの上着のすそをしっかりとおさえていたのであった。
わたしたちは大きな路地をつっ切って、もう一日じゅう日の光がけっしてもれたことのないような、きたならしい、じめじめした一けんの家にはいった。それはこれまでわたしの見たかぎりのいちばんひどい家であった。
「ガロフォリさんはいるかね」と親方が、ランプの光で、ぼろ[#「ぼろ」に傍点]をドアにぶら下げていた男にたずねた。
「知らねえや。上がって見て来い」とその男はうなった。「はしごだんのいちはんてっぺんだ。それおまえの鼻っ先に見えてるじゃないか」
「ガロフォリというのは、ルミ、おまえに話した親方だよ。ここが住まいだ」階段《かいだん》を上がりながら親方はこう言った。その階段《かいだん》は厚《あつ》いどろがこちこちに積《つ》もって、ややもするとすべって足を取られそうになった。街《まち》といい、家といい、はしご段
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