たしはおまえを捨てる権利《けんり》がないのだ。それは覚《おぼ》えておいで。わたしはあの優《やさ》しいおくさんが、おまえを引き取って自分の子にして育てようというのを、聞かなかった。あの日からわたしはおまえのためにできるだけつくしてやる義務《ぎむ》ができたのだ。だがわたしはいまの場合、なにもしてやることができない。それでわたしは別《わか》れるのがいちばんいいと考えたわけだ。それもほんのしばらくのあいだだ。わたしたちはこの時候《じこう》の悪い二、三か月だけも別《わか》れているほうがいいのだ。カピのほかみんないなくなってしまった一座《いちざ》では、パリにいてもなにができよう」
かれの名が出ると、かわいいカピはわたしたちのそばへやって来た。かれは前足を右の耳の所へ上げて、軍隊《ぐんたい》風の敬礼《けいれい》をして、それを胸《むね》に置《お》いて、あたかもわたしたちはかれの誠実《せいじつ》に信頼《しんらい》することができるというようであった。親方は犬の頭に優《やさ》しく手を当てそれをおさえた。
「そうだよ。おまえは善良《ぜんりょう》な忠実《ちゅうじつ》な友だちだ。けれど情《なさ》けないことにはほかのものがいないでは、もうたいしたことはできないのだ」
「でもわたしのハープは……」
「わたしもおまえのような子どもが二人あれば、うまくゆくのだ。けれど老人《ろうじん》がたった一人、男の子を連《つ》れたのでは、ろくなことはない。わたしはまだ老《お》いくちたというのでもない。まあいっそめくらになるか、足の骨《ほね》でも折《お》れてくれればいいのだ。だがまだわたしは人びとの足を止めさせ、目をつけさせるほど情《なさ》けないありさまにもなってはいない。それにお上《かみ》の救助《きゅうじょ》を受けるようなはずかしいことはできない。そこでわたしはおまえを冬の終わりまで、ある親方の所へやろうと心を決めた。親方はおまえをほかの子どもたちの仲間《なかま》に入れてくれるだろう。そこでおまえはハープをひけばいいのだ」
「そうしてあなたは」とわたしはたずねた。
「わたしはパリでは顔を知られている。たびたびこちらへは来ていたことがある。このまえおまえの村へ行ったときも、パリから行ったのだ。大道でハープやヴァイオリンをひくイタリアの子どもらにけいこをしてやる。わたしはただ広告《こうこく》をさえすれば欲《ほ》しいだけの弟子《でし》は集まるのだ。そこでそのあいだにゼルビノとドルスの代わりになる犬を二ひきしこもうと思う。それから春になってルミ、またいっしょに出かけようよ。まあ当分は勇気《ゆうき》と忍耐《にんたい》が必要《ひつよう》だ。わたしたちはこれまでちょうどつごうの悪い、間《あい》の時節《じせつ》ばかり通って来た。春になればだんだん境遇《きょうぐう》も楽になる。そこでわたしはおまえを連《つ》れて、ドイツとイギリスを回るつもりだ。そのうちおまえも大きくなるし、考えも進んでくる。わたしはおまえにたくさんのことを教えて、りっぱな人間にしてやる。わたしはそれをミリガン夫人《ふじん》とやくそくした。おまえにイギリス語を教えだしたのもそのわけだ。おまえはフランス語とイタリア語を話すことができる。これはおまえの年ごろの子どもとしてはえらいことだ。おまえはからだもじょうぶだし、どうしてこの先、運の開ける望《のぞ》みはじゅうぶんある」
たぶん親方がこう言ってわたしのために計画してくれたことは、みんないちばんいいことにちがいなかった。けれどそのときにはわたしはただ二つのことだけしか考えられなかった。
わたしたちは別《わか》れなければならない。そしてわたしはよその親方の所へ行かなければならない。
流浪《るろう》のあいだにわたしはいくたりかの親方に会ったが、いつもほうぼうからやとい入れて使っている子どもたちをひどく打ったりたたいたりする者が多かった。かれらはひじょうに残酷《ざんこく》であった。ひどく口ぎたなかったり、いつも酔《よ》っぱらっていた。わたしはそういうおそろしい人間の一人に使われなければならないのであろうか。
それでもし運よく親切な親方に当たるとしても、これはまた一つの変化《へんか》であった。初《はじ》めが養母《ようぼ》、それから親方、それからまた一人――それはいつでもこうなのであろうか。わたしはいつまでもその人を愛《あい》して、その人といっしょにいることのできる相手《あいて》を見つけることができないのであろうか。
だんだんわたしは親方に引きつけられるようになっていた。かれはほとんど父親というものはこんなものかとわたしに思わせた。
でもわたしはほんとうの父親を持つことがないのだ。うちを持つことがないのだ。この広い世界に、いつも独《ひと》りぼっちなのだ。だれの子でもないのだ。
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