のが赤子のじぶん飲みつけていたものですから、それでよけい子どものじぶんが思い出されるとみえます」というように言うのであった。この作り話の効《き》き目《め》がいつもあるわけではなかったが、たまにそれが当たるといい一晩《ひとばん》が過《す》ごされた。そうだ、わたしはほんとにひつじの乳《ちち》を好《す》いていた。だからこれがもらえると、そのあくる日はずっと、元気になったように感じた。
パリに近づくにしたがって、いなか道がだんだん美しくなくなるのが、きみょうに思われた。もう雪も白くはないし、かがやいてもいなかった。わたしはどんなにかパリをふしぎな国のように言い聞かされていたことであろう。そしてなにかとっぴょうしもないことが始まると思っていた。それがなんであるか、はっきりとは知らなかった。わたしは黄金の木や、大理石の町や玉でかざったご殿《てん》がそこにもここにも建《た》っていても、ちっともおどろきはしなかったであろう。
われわれのようなびんぼう人がパリへ行って、いったいなにができるのであろう。わたしはしじゅうそれが気になりながら、それを親方に聞く勇気《ゆうき》がなかった。かれはずいぶんしずみきってふきげんらしかった。
けれどある日とうとうかれのほうからわたしのほうへ近づいて来た。そしてかれのわたしを見る目つきで、このごろしじゅう知りたいと思っていたことを知ることができそうだと感じた。
それはある大きな村から遠くない百姓家《ひゃくしょうや》にとまった朝のことであった。その村はブアシー・セン・レージェという名であることは、往来《おうらい》の標柱《ひょうちゅう》でわかった。
さてわたしたちは日の出ごろ宿《やど》をたって、別荘《べっそう》のへいに沿《そ》って、そのブアシー・セン・レージェの村を通りぬけて、とある坂の上にさしかかった。その坂のてっぺんから見下ろすと、目の前には果《は》てしもなく大きな町が開けて、いちめんもうもうと立ち上がった黒けむりの中に、所どころ建物《たてもの》のかげが見えた。
わたしはいっしょうけんめい目を見張《みは》って、けむりやかすみの中にぼやけている屋根や鐘楼《しょうろう》や塔《とう》などのごたごたした正体を見きわめようと努《つと》めていたとき、ちょうど親方がやって来た。ゆるゆると歩いて来ながら、いままでの話のあとを続《つづ》けるというふうで、
「これからわたしたちの身の上も変《か》わってくるよ。もう四時間もすればパリだから」と言った。
「へえ、ではあすこに遠く見えるのが、パリなんですか」とわたしは問うた。
「うん」
親方がそう言って指さしをしたとき、ちょうど日がかっとさして、ちらりと金色《こんじき》にかがやく光が目にはいったように思った。
まったくそのとおりであった。やがて黄金の木を見つけるであろう。
「わたしたちはパリへ行ったら別《わか》れようと思う」とかれはとつぜん言った。
すぐに空はまた暗《くら》くなった。黄金の木は見えなくなった。わたしは親方に目を向けた。かれもまたわたしを見た。わたしの青ざめた顔色とふるえるくちびるとは、わたしの心の中のあらしをはっきりと現《あらわ》していた。
「おまえ、心配しているとみえるね。悲しいか。わたしにはわかっているよ」
「別《わか》れるんですって」わたしはやっとつぶやいた。
「ああそうだよ。別れなければね」
こう言ったかれの調子がわたしの目になみだをさそった。もう久《ひさ》しくわたしはこんな優《やさ》しいことばを聞かなかった。
「ああ、あなたはじつにいい人です」とわたしはさけんだ。
「いや、いい子はおまえだよ。じつに親切ないい子だ。人間は一生にしみじみ人の親切を感ずるときがあるものだ。何事もよくいっているときには、だれが自分といっしょにいるか、ろくろく考えることなしに世の中を通って行く。けれど物事がちょいちょいうまくいかなくなり、悪いはめには落ちてくるし、とりわけ人間が年を取ってくると、だれかにたよりたくなるものだ。わたしがおまえにたよると聞いたら、びっくりするかもしれないが、でもそれはまったくだよ。ただおまえがわたしのことばを聞き、わたしをなぐさめてくれて、なみだを流してくれると、わたしはたまらないほどうれしい。わたしも不幸《ふしあわ》せな人間であったよ」
わたしはなんと言っていいかわからなかった。わたしはただかれの手をさすった。
「しかも不幸《ふこう》なことには、わたしたちはおたがいのあいだがだんだん近づいてこようというじぶんになって、別《わか》れなければならないのだ」
「でもあなたはわたしをたった一人パリへ捨《す》てて行くのではないでしょう」とわたしはこわごわたずねた。
「いいや、けっしてそんなことはない。おまえはこの大きな町で自分一人なにができよう。わ
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