て、優《やさ》しくかれの手を取って引き起こそうとした。
 その手はもう冷《つめ》たかった。
 親方がそのとき部屋にはいって来た。
 わたしはかれのほうを見た。
「ジョリクールが冷《つめ》たいんですよ」とわたしは言った。
 親方はそばへ来て、やはりとこの上にのぞきこんだ。
「死んだのだ」とかれは言った。「こうなるはずであった。ルミや、おまえをミリガン夫人《ふじん》の所から無理《むり》に連《つ》れて来たのは悪かった。わたしは罰《ばっ》せられたのだ。ゼルビノ、ドルス、それから今度はジョリクール……だがこれだけではすむまいよ」


     パリ入り

 まだパリからはよほどはなれていた。
 わたしたちは雪でうずまった道をどこまでも歩いて行かなければならなかった。朝から晩《ばん》まで北風に顔を打たれながら、とぼとぼ歩いて行かなければならなかった。
 この長いさすらいの旅はどんなにつらかったろう。親方が先に立って歩く。続《つづ》いてわたし、その後からカピがついて来た。こうして一列になって、わたしたちは何時間も、何時間も、ひと言も口をきかずに、寒さで血の気《け》のなくなった顔をして、ぬれた足と空っぽな胃《い》ぶくろをかかえて歩き続《つづ》けた。とちゅうで行き会う人はふり返って、わたしたちの姿《すがた》が見た。まさしくかれらはきみょうに思ったらしかった。このじいさんは、子どもと犬をどこへ連《つ》れて行くのであろう。
 沈黙《ちんもく》はわたしにとって、つらくもあり悲しくも思われた。わたしはしきりと話をしたかったけれど、やっと口を切ると、親方はぷっつり手短に答えて、顔をふり向けもしなかった。うれしいことにカピはもっと人づき(人づき合い)がよかった。それでわたしが足を引きずり引きずり歩いて行くと、ときどきかれのぬくい舌《した》が手にさわった。かれはあたかもお友だちのカピがここについていますよというように、優《やさ》しくなめてくれた。そこでわたしもさすり返してやった。わたしたちはおたがいに心持ちをさとり合った。おたがいに愛《あい》し合っていた。
 わたしにとっては、これがなによりのたよりであったし、カピもそれをせめてものなぐさめとしているらしかった。物に感ずる心は犬の心も子どもの心もさしてちがいがなかった。
 こうしてわたしがカピをかわいがってやると、カピもそれになぐさめられて、いくらかずつ仲間《なかま》をなくした悲しみをまぎらしてゆくようであった。でも習慣《しゅうかん》の力はえらいもので、ときどき立ち止まっては、一座《いちざ》の仲間《なかま》が後から来るのを待ちうけるふうであった。それはかれが以前《いぜん》一座の部長であったとき、座員を前にやり過《す》ごして、いちいち点呼《てんこ》する習慣《しゅうかん》があったからである。けれどそれもほんの数秒時間のことで、すぐ思い出すと、もうだれも後から来るはずがないと思ったらしく、すごすご後から追い着いて来て、ドルスもゼルビノも来ませんが、それでやはりちがってはいないのですというように親方をながめるのであった。その目つきには感情《かんじょう》とちえがあふれていて、見ていると、こちらも引き入れられるように思うのであった。
 こんなことは、ちっとも旅行をゆかいにするものではなかったが、わたしたちの気をまぎらす種《たね》にはなった。
 行く先ざきの野面《のづら》はまっ白な雪でおおわれて、空には日の光も見えなかった。いつも青白い灰《はい》色の空であった。畑《はた》をうつ百姓《ひゃくしょう》のかげも見えなかった。馬のいななきも聞こえなければ、牛のうなりも聞こえなかった。ただ食に飢《う》えたからすが、こずえの上で虫を探《さが》しあぐねて悲しそうに鳴いていた。村で戸を開けているうちはなくって、どこもしんと静《しず》まり返っていた。なにしろ寒気がひどいので、人間は炉《ろ》のすみにちぢかまっているか、牛小屋や物置《ものお》き小屋《ごや》でこそこそ仕事をしていた。
 でこぼこな、やたらにすべる道をまっしぐらにわたしたちは進んで行った。
 夜はうまややひつじ小屋で一きれのパン、晩飯《ばんめし》にはじつに少ない一きれのパンを食べてねむった。その一きれが昼飯と晩飯をかねていた。
 ひつじ小屋に明かすことのできるのは、中での楽しい晩《ばん》であった。ちょうど雌《め》ひつじが子どもに乳《ちち》を飲ませる時節《じせつ》で、ひつじ飼《か》いのうちには、ひつじの乳をかってにしぼって飲むことを許《ゆる》してくれる者もあった。でもわたしたちはひつじ飼いに向かっていきなり、腹《はら》が減《へ》って死にそうだとも話しえなかったけれど、親方は例《れい》のうまい口調でそれとなしに、「この子どもはたいへんひつじの乳《ちち》が好《す》きなのですよ。それという
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