》のすみに引っこんでいた。
 そのなみだの霧《きり》の中から、わたしは、前列のこしかけにすわっていた若《わか》いおくさんがいっしょうけんめい手をたたいているのを見た。わたしはまえから、この人が一人、今夜小屋に集まった百姓《ひゃくしょう》たちとちがっていることを見つけた。かの女は若《わか》い美しい貴婦人《きふじん》で、そのりっぱな毛皮の上着だけでもこの村一番の金持ちにちがいないとわたしは思った。かの女はいっしょに子どもを連《つ》れていた。その子もむちゅうでカピにかっさいしていた。ひじょうによく似《に》ているところを見れば、それはかの女のむすこであった。
 初《はじ》めの歌がすむと、カピはまたどうどうめぐりをした。ところがそのおくさんはぼうしの中になにも入れなかったのを見て、わたしはびっくりした。
 親方が第二の曲をすませたとき、かの女は手招《てまね》きをしてわたしを呼《よ》んだ。
「わたし、あなたの親方さんとお話ししたいんですがね」とかの女は言った。
 わたしはびっくりした。(そんなことよりもなにかぼうしの中へ入れてくれればいい)とわたしは思った。カピはもどって来た。かれは二度目のどうどうめぐりでまえよりももっとわずか集めて来た。
「あの婦人《ふじん》がなにか用があると言うのか」と親方がたずねた。
「あなたにお話がしたいそうです」
「わたしはなにも話すことなんかない」
「あの人はなにもカピにくれませんでした。きっといまそれをくれようというんでしょう」
「じゃあ、カピをやってもらわせればいい。わたしのすることではない」
 そうは言いながら、かれは行くことにして、犬を連《つ》れて行った。わたしもかれらのあとに続《つづ》いた。そのとき一人の僕《ぼく》(下男)が出て来て、ちょうちんと毛布《もうふ》を持って来た。かれは婦人《ふじん》と子どものわきに立っていた。
 親方は冷淡《れいたん》に婦人《ふじん》にあいさつをした。
「おじゃまをしてすみませんでした。けれどわたくし、お祝《いわ》いを申し上げたいと思いました」
 でも親方は一|言《ごん》も言わずに、ただ頭を下げた。
「わたくしも音楽の道の者でございますので、あなたの技術《ぎじゅつ》の天才にはまったく感動いたしました」
 技術の天才。うちの親方が。大道の歌うたい、犬使いの見世物師《みせものし》が。わたしはあっけにとられた。
「わたしのような老《お》いぼれになんの技術《ぎじゅつ》がありますものか」とかれは冷淡《れいたん》に答えた。
「うるさいやつとおぼしめすでしょうが」と婦人《ふじん》はまた始めた。
「なるほどあなたのようなまじめなかたの好奇心《こうきしん》を満足《まんぞく》させてあげましたことはなによりです」とかれは言った。「犬使いにしては少し歌が歌えるというので、あなたはびっくりしておいでだけれど、わたしはむかしからこのとおりの人間ではありませんでした。これでも若《わか》いじぶんにはわたしは……いや、ある大音楽家の下男《げなん》でした。まあおうむのように、わたしは主人の口まねをして覚《おぼ》えたのですね。それだけのことです」
 婦人《ふじん》は答えなかった。かの女は親方の顔をまじまじと見た。かれもつぎほのないような顔をしていた。
「さようなら、あなた」とかの女は外国なまりで言って、「あなた」ということばに力を入れた。
「さようなら。それからもう一度今夜味わわせていただいた、このうえないゆかいに対してお礼を申し上げます」こう言ってカピのほうをのぞいて、ぼうしに金貨《きんか》を一|枚《まい》落とした。
 わたしは親方がかの女を戸口まで送って行くだろうと思ったけれど、かれはまるでそんなことはしなかった。そしてかの女がもう答えない所まで遠ざかると、わたしはかれがそっとイタリア語で、ぶつぶこごとを言っているのを聞いた。
「あの人はカピに一ルイくれましたよ」とわたしは言った。そのときかれは危《あぶ》なくわたしにげんこを一つくれそうにしたけれど、上げた手をわきへ垂《た》らした。
「一ルイ」とかれはゆめからさめたように言った。「ああ、そうだ、かわいそうに、ジョリクールはどうしたろう。わたしは忘《わす》れていた。すぐ行ってやろう」
 わたしはそうそうに切り上げて、宿《やど》へ帰った。
 わたしはまっ先に宿屋《やどや》のはしごを上がって部屋《へや》へはいった。火は消えてはいなかったが、もうほのおは立たなかった。
 わたしは手早くろうそくをつけた。ジョリクールの声がちっともしないので、わたしはびっくりした。
 やがてかれが陸軍大将《りくぐんたいしょう》の軍服《ぐんぷく》を着て、手足をいっぱいにつっぱったまま、毛布《もうふ》の上に横になっているのを見た。かれはねむっているように見えた。
 わたしはからだをかがめ
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