いるだろう。あすこへは港をはなれて行く船がある。川のまん中にいる船が満潮にかじを向けるようなふうに、いかりの上でくるくる回っている。けむりの雲の中を走って行く船は引き船だ」
わたしにとってはなんということばであろう。なんという目新しい事実であろう。
わたしたちが、パスチードとボルドーを通じている橋の所へ来るまでに、親方はわたしが聞きたいと思った質問《しつもん》の百分の一に答えるだけのひまもなかった。
これまでわたしたちはけっしてとちゅうの町で長逗留《ながとうりゅう》をすることはなかった。なぜというに、しじゅう見物をかえる必要《ひつよう》から、しぜん毎日|興行《こうぎょう》の場所をも変《か》えなければならなかった。それに『名高いヴィタリス親方の一座《いちざ》』の役者では、狂言《きょうげん》の芸題《げいだい》をいろいろにかえてゆく自由がきかなかった。『ジョリクール氏《し》の家来』『大将《たいしょう》の死』『正義《せいぎ》の勝利《しょうり》』『下剤《げざい》をかけた病人』、そのほか三、四|種《しゅ》の芝居《しばい》をやってしまえば、もうおしまいであった。それで一座《いちざ》の役者の芸《げい》は種切《たねぎ》れであった。そこでまた場所を変《か》えて、まだ見ない見物の前で、これらの狂言《きょうげん》を、相変《あいか》わらず、『下剤をかけた病人』か、『正義の勝利』をやらなければならなかった。
しかし、ボルドーは大都会である。見物は容易《ようい》に入れかわったし、場所さえ変えると毎日三、四回の興行《こうぎょう》をすることができた。それでもカオールに行ったときのように、『いつでも同じことばかりだ』とどなられるようなことはなかった。
ボルドーを打ち上げてから、わたしたちはポーへ行かなければならなかった。そのとちゅうでは大きなさばくをこえなければならなかった。さばくはボルドーの町の門からピレネーの連山《れんざん》まで続《つづ》いていて、『ランド』という名で呼《よ》ばれていた。
もうわたしもおとぎ話にある若《わか》いはつかねずみのように、見るもの聞くものが驚嘆《きょうたん》や恐怖《きょうふ》の種《たね》になるというようなことはなかった。それでもわたしはこの旅行の初《はじ》めから、親方を笑《わら》わせるような失敗《しっぱい》を演《えん》じて、ポーに着くまで、そのためなぶられどおしになぶられるほかはなかった。
わたしたちは七、八日のちボルドーを出発した。ガロンヌ川|沿岸《えんがん》の土地を回ったのち、ランゴンで川をはなれて、モン・ド・マルサンへ行く道をとった。その道はつま先下がりに下がっていった。もうぶどう畑もなければ、牧場《ぼくじょう》もない。果樹園《かじゅえん》もない、ただまつ[#「まつ」に傍点]と灌木《かんぼく》の林があるだけであった。やがて人家もだんだん少なくなり、だんだんみすぼらしくなった。とうとうわたしたちは大きな高原のまん中にいた。所どころ高低《こうてい》はあっても、日の届《とど》くかぎり野原であった。畑地《はたち》もなければ森もない、遠方から見るとただ一色のねずみ色の土地であった。道の両側《りょうがわ》がうす黒いこけや、しなびきった灌木《かんぼく》や、いじけたえにしだ[#「えにしだ」に傍点]でおおわれていた。
「わたしたちはランドの中に来たのだ」と親方が言った。「このさばくのまん中まで行くには二十里か二十五里(八十キロか百キロ)行かなければならない。しつかり足に元気をつけるのだぞ」
元気をつけなければならないのは足だけではなかった。頭にも、胸《むね》にも、元気をつけなければならなかった。なぜといって、もう終わる時のないように広いさばくの道を歩いて行くとき、だれでもばんやりして、わけのわからない悲しみと、がっかりしたような心持ちに胸《むね》がふさがるのであった。
そののちもわたしはたびたび海上の旅をしたが、いつも大洋のまん中で帆《ほ》かげ一つ見えないとき、わたしはやはりこの無人《むじん》の土地で感じたとおりの言いようもない悲しみを、また経験《けいけん》したことがあった。
大洋の中にいると同様に、わたしたちの日は遠い秋霧《あきぎり》の中に消えている地平線まで届《とど》いていた。ひたすら広漠《こうばく》と単調《たんちょう》が広がっている灰色《はいいろ》の野のほかに、なにも目をさえぎるものがなかった。
わたしたちは歩き続《つづ》けた。でも機械的《きかいてき》にときどきぐるりと見回すと、やはりいつまでも同じ場所に立ち止まったまま、少しも進んでいないように思われた。目に見える景色《けしき》はいつでも同じことであった。相変《あいか》わらずの灌木《かんぼく》、相変わらずのえにしだ[#「えにしだ」に傍点]、相変わらずのこけであった。
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