風がふくとやわらかなわらびの葉がなよなよと動いて、まるで波の走るように高く低《ひく》く走った。
ずいぶん長いあいだをおいて、たまさか、わたしたちはちょいとした森を通りぬけることがあったが、その森はふつうの森のように、とちゅうの興《きょう》をそえるようなものではなかった。いつもまつ[#「まつ」に傍点]の木の森で、そのえだはこずえまで風に打ち落とされていた。幹《みき》に長く、深い傷《きず》がえぐれていた。その赤い傷口からすきとおったまつやにのなみだが流れ出していた。風が傷口からふきこむと、いかにも悲しそうな音楽を奏《そう》して、この気のどくなまつ[#「まつ」に傍点]がみずから痛《いた》みをうったえる声のように聞かれた。
わたしたちは朝から歩き続《つづ》けていた。親方は夜までにはどこかとまれる村に着くはずだと言っていた。けれど夜になっても、その村らしいものは見えなかったし、人家に近いことを知らせるけむりも上がらなかった。
わたしはくたびれたし、ねむたかった。わたしたちは前途《ぜんと》はただ原っぱを見るだけであった。
親方もやはりくたびれていた。かれは足を止めて道ばたに休もうとした。
わたしはそれよりも、左手にあった小山に登って、村の火が見えるかどうか見たいと思った。
わたしはカピを呼《よ》んだが、カピもやはりくたびれていたので、呼んでも聞こえないふりをしていた。これはいつでも言うことを聞きたくないときにカピのやることであった。
「おまえ、こわいのか」とヴィタリスは言った。
この質問《しつもん》がすぐにわたしを奮発《ふんぱつ》さして、一人で行く気を起こさせた。
夜はすっかり垂《た》れまくを下ろした。月もなかった。空の上には星の光がうすもやの中にちらちらしていた。歩いて行くと、そこらのさまざまな物がぼんやりした光の中できみょうな幽霊《ゆうれい》じみた形をしているように見えた。野生のえにしだ[#「えにしだ」に傍点]が、頭の上にぬっと高く延《の》びて、まるでわたしのほうへ向かって来るように見えた。上へ登れば登るほどいばらや草むらはいよいよ深くなって、わたしの頭をこして、上でもつれ合っていた。ときどきわたしはその中をくぐってぬけて行かなければならなかった。
けれどわたしはぜひも頂上《ちょうじょう》まで登らなければならないと決心した。でもやっとのこと登ってみれば、どちらを見ても明かりは見えなかった。ただもうきみょうな物の形と、大きな樹木《じゅもく》が、いまにもわたしをつかもうとするようにうでを延《の》ばしているだけであった。
わたしは耳を立てて、犬の声か、雌牛《めうし》のうなり声でも聞こえはしないかと思ったが、ただもうしんと静《しず》まり返っていた。
どうかして聞き取ろうと思うから、耳をすませて、自分の立てる息の音さええんりょをして、わたしはしばらくじっと立っていた。
ふとわたしはぞくぞく身ぶるいがしだした。このさびしい、人気《ひとけ》のない荒野原《あらのはら》の静《しず》けさが、わたしをおびやかしたのであった。なんにわたしはおびえたのであったか、たぶんあまり静《しず》かなことが……夜が……とにかく言いようのない恐怖《きょうふ》がわたしの心にのしかかるようにしたのであった。わたしの心臓《しんぞう》は、まるでそこになにか危険《きけん》がせまったようにどきついた。
わたしはこわごわあたりを見回した。するとそのとき、遠方に大きな姿《すがた》をしたものが木の中で動いているのを見た。それといっしょにわたしは木のえだのがさがさいう音を聞いた。
わたしは無理《むり》に、それは自分の気の迷《まよ》いだと思いこもうとした。きっとそれは木のえだか灌木《かんぼく》のかげかなんぞだったのだ。
けれど、そのとき風は、木の葉を動かすほどの軽い風もふいてはいなかった。はげしい風でふかれるか、だれかがさわらないかぎり動くはずはなかったのである。
「だれかしら」
いや、この自分のほうを目ざしてやって来る大きな影法師《かげぼうし》が人間であるはずがなかった――わたしのまだ知らないなにかのけものか、またはおそろしい大きな夜鳥か、大きなばけぐもが木の上をとびこえて来るのだ。なんにしても確《たし》かなことは、この化け物はおそろしく長い足をしていて、ばかばかしく早く飛んで来るということであった。
それを見るとわたしはあわてて、あとをも見ずに、足に任《まか》せて小山をかけ下りて、ヴィタリスのいる所までにげようとした。
けれどきみょうなことに、登るときだけに早くわたしの足が進まなかった。わたしはいばらや、雑草《ざっそう》のやぶの中に転《ころ》がって、二足ごとにひっかかれた。
ちくちくするいばらの中からはい出して、わたしはふと後ろをふり向いてみた。怪物《か
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