副院長の姿も見えなかった。おそらく医局で診察に追われているのであろう。
この暑い日盛《ひざか》りを、当てもなく歩いても仕様がないと思っていた鷺太郎は、結局一日をぽかんと暮してしまった。
ただ、その間、あの殺人の事件は、早くも看護婦の間にも拡まったらしく、盛《さかん》に噂は聞くのだけれど、可怪《おか》しなことには、その殺された美少女の身元は勿論、名前さえも、杳《よう》として不明であったのだ。
それは朝刊にも、又、早くも届けられた、インクの匂いのぷうんとする夕刊にも、不明とばかり報ぜられていた。
それは実に不思議なことだった。
あれほどの美少女が殺されながら、そして、新聞に写真まで出され、警察でも必死の活動をしているのであろうに、更にわからなかった。
被害者の身許もわからない、ということは、今の捜査法では手のつけられぬ難物なのである。
この豪華なK――海浜都市で行われた殺人の、その類《たぐい》まれなほどの断髪洋装の(その身なりから見て、中流以上の者であることは、想像されたが)美少女の身許が、まるで木の股から生れたものであるかのように、全く解らない、というのは実《じつ》もっておかしな話であった。而《しか》も、それはこの事件に終止符が打たれてしまってからも、遂《つい》にわからなかったのである――。
×
――軈《やが》て、日が暮れ、このSサナトリウムにも灯《ひ》がともった。
鷺太郎は、この日一日位、焦燥を感じた日はなかった。このあいついで起った美少女殺人事件の下手人が、かつて自分をもペテンにかけた山鹿十介であることを、もう動かすことの出来ぬものであると、確《かた》く信じながらも、最後の一寸した躓《つまず》きのために、ハッキリと断言することが出来ないでいるのだ。
そんなことを考えていると、
『やあ――』
畔柳博士が這入って来た。
『一寸《ちょっと》、面白いものを見せますから一緒に来ませんか』
『何んですか……行くことは行きますが』
『実験ですよ、見て下さい私を――』
そういわれてみると、博士はいつもとは違って白ワイシャツに白の半ズボンを穿《は》いていた。恰度《ちょうど》、あのゆうべみた白服の男と同じ支度《こしらえ》であったのだ。
門を出ると、春生も白ズボンを穿いてまっていた。三人は黙々としてZ海岸の方に急いだ。
間もなく、ゆうべの事件のあ
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