さに、心を搏たれてしまったのだ。

      四

 軈《やが》て、はっと我れにかえった鷺太郎は、思い出したように、
(警察へ――)
 と気づくと、大急ぎで、又崖を馳上り、夜道を巡査派出所の方へ馳けはじめた。
『白藤さん……じゃないですか』
 と、行く手の方から、ふらりふらりやって来た男が、擦れちがいざま、名を呼んだ。
 彼は、名を呼ばれて、ギクンと立止った。
『あ、やっぱり――。どうしたんです。馬鹿にあわててるじゃないですか』
『え?』
 そういった男の顔を覗き込んだ鷺太郎は、
(あっ――)
 と、も少しで叫ぶところであった。
 その男が、あの山鹿十介なのだ。
 山鹿十介は、浴衣がけに下駄ばき、おまけに、釣竿までかついでいた。
『どうしたんです、一体……』
 相手は至極《しごく》落着いていたが、鷺太郎は、しばらく返事の言葉が思いつかぬほどだった。
 タッタ今まで、山鹿だと思っていたその本人が、いまここに、怪訝《けげん》な顔をして突立っているではないか。
(それでは、あの白服の山鹿十介は何処へ行ったのだ――)
 山鹿の別荘から出て来たのは慥《たしか》だけれど、尤《もっと》も考えてみれば、後姿を、それも輪廓だけで、或は別人だったのかも知れない――と思いついた。
(それにしても、あの男は何処へ消えたのだろう――)
 その男が、殺人の下手人であることは、十中八九間違いはないことだけれど、どうやら山鹿と思ったのは、暗がりの見違いだったらしい。
『どちらへ……』
『夜釣りに行こうか、と思ってね――、どうしたんです。お化けでも出たんですか』
 山鹿は、例の皮肉な笑いを、浮べていた。
『お化け?――いや、それどころじゃない、人殺しですよ』
『え、人殺し――、又ですかい』
 山鹿も、あの海岸開きの日の殺人を思い出したらしい。
『そうなんで、また、綺麗な女の子ですよ』
『そいつあ大変だ、何処です、それは――』
『つい、この先の草叢なんで……』
 鷺太郎は、話ながら、あの夏草の蔭で、蛍火に浮出されている、凄い美しさを思い出した。
『兎《と》に角《かく》、警察だ――』
 山鹿は、クルッと振向くと、今来た方へ、鷺太郎と並んで釣竿をかついだ儘《まま》、すたすたと歩き出した。
 二人は、もう口を利かなかった。
 山鹿には、以前気まずい思いをして、もう二度と口をきくまいと別れた鷺太郎ではあった
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