らトテツもない恐ろしい影を写している虚黒な眸《ひとみ》があった……。
洵吉は、一瞬も、面と向って直視することが出来なかった。
そして危うく眼を床に落して、息をついた彼は、すぐ次の壁に尨大な脛を発見して、又驚かなければならなかった。それは普通の四五倍もある大きな、毛むくじゃらな脛だけが、天井からぶら下って、風もないのに、その脛の毛がむじむじと縺《もつ》れあっているのだ。
そして又次には腕だけ、腹だけ、或は耳だけ、乳だけの、ずたずたに切られた巨大な人間の各部分が、薄暗い空間に浮いて、音もなく蠢《うご》めいているのだ。
そうしてそれらの蠕動《ぜんどう》は、次第に力づいて来ると、夕闇の泌みこんだ部屋の中を乗越えて、寺田の周囲に泳ぎ寄って来るのであった。
彼は、余りのことに、力の抜けた体を、やっとドアーにもたせかけた。
二
もし、その時、水木が、
「もうすぐだ、一寸《ちょっと》、まってくれ……」
と、次の部屋から声をかけてくれなかったら、寺田は、当然、一目散にこの化物屋敷のような水木の家を、飛出していたに違いない……又、あとから考えてみれば、この時、一目散に遁出《にげだ》してしまっていた方が、寺田にとって、どんなに幸福だったかしれないのだが……。
「暗いだろう。ドアーの傍にスイッチがあるから、点けてくれたまえ――」
又、次の部屋から、水木の声が、聴えて来た。
だが、寺田は、その声を聞いても、まだ返事が出来ずに、それでも不甲斐なくガタガタ顫える手で、周章《あわて》て壁を撫《なで》廻すと、やっとスイッチを見つけて、力一杯に捻《ひね》った。
パッとかすかな音がして、部屋の中はくらくらするような光線に満たされると、洵吉が、二三度瞬きしている間に、あの空間に浮動していた巨大な手や、足や、唇どもは、壁に貼られた、それぞれの引伸ばし写真の中に吸い込まれて、「知らん顔」をしているのであった。
(ナンダ写真だったのか)
寺田洵吉は、これが水木の、悪趣味な写真だったのか、と見極《みきわめ》がつくと、やっと、※[#「口+息」、133−9]《ほ》っとした気持ちになったが、それでもまだ胸の動悸が頭の芯に、ジンジン響くのを意識しながら入口のところに突立っていた。
――そうして待つ間、思出すともなく、浮んで来たのは、中学生時代の水木舜一郎のことだった。
洵吉の記憶では、もうその時分から「水木」と「写真」というものとは不可分のものであった。
水木は家がよかった為か、田舎の中学生としては贅沢な写真機を持っていた。
そして初めの中は同級生なんかを撮って喜んでいたのだがそれにも倦きると、今度は自分で逆立《さかだち》をして写してみたり(可笑しなことには、大苦しみをして逆立で撮った写真も、出来上ってみれば普通の写真だった)或は又、毛虫をカビネ一杯位に大きく写して、そのむやむや[#「むやむや」に傍点]とした、毛むくじゃらな、醜悪な姿を見せて、級友達の気味悪がるのを見て喜んだりしていた幼ない美少年であった彼の姿……。
しかし、そんな思い出の中で、タッタ一つ、寺田自身も、
(こいつは傑作だ!)
と思ったのがあった。それは、水木が町の絵葉書屋から、色々な女優のプロマイドを買集めて来て、それを切抜いたり、重ね合せり、複写したりして、口は東活の冬島京子、眼は東邦プロの春沢美子、耳は……、というように多くの女優の顔の中から、特徴のある部分だけを採って、それで一枚の美人写真を、頗る巧妙に造上げたものだった。
水木は、それをわざわざ教科書の間に忍ばせて来て、
(おい、これ誰だか知ってるかい……)
ともったい[#「もったい」に傍点]振って見せびらかし、「通」自慢の級友たちが、頭をひねっているのを見て、手をうって喜んでいた水木の姿。又、それを洵吉自身も一寸覗き込んで、その余りに整った、創造された美人の顔に、思わずゾッとして冷めたさを感じたことを、今、アリアリと偲い浮べるのであった――。
×
そんなことを、ぼんやりと考えていると、
「どうもお待ち遠……」
といいながら、水木が、この部屋の向側にあったドアーを開け、手にはまだ水のたれている乾版をもって出て来た。
「この間は失敬、随分待たしちゃったね、写真はやりかかると、手がはなせないんでね――何をぽかんとしてんだい」
「うん、いや、何でもないさ――」洵吉は、笑ってみようとしたが、どうも頬がこわばって[#「こわばって」に傍点]いるのに気がついた。だが、水木はそんなことには気がつかなかったようで、手に持った乾版を覗いてみると、寺田の眼の前につき出しながら、
「どうだい、素晴らしいだろう――これがあの浅草の小川鳥子なんだぜ。やっと承知させて裸のやつを今日撮って来たんだ」
「小川……」
「
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