小川鳥子といえば、今売出しの踊子じゃないか……」
洵吉も、ちょっと興味をひかれたので、差出された乾版を覗いてみたが、余り乾版というものを見馴れない彼にはただ乳白色のバックの中に、真黒で眼のはた[#「はた」に傍点]や、口のまわりばかりの白い、黒人のような少女が、全裸《まっぱだか》のまま無作法な姿をしているだけのものであった。
「君、この鳥子が、珍らしいさめ[#「さめ」に傍点]肌なんだぜ、すごいぞ……」
水木は嬉しそうに、口の中で、そんな事を呟くと、もう一遍、その乾版を翳見《かざしみ》てから
「今日はもう少し現像するのがあるんだ、一緒に来てみたまえ……」
そういうと、水木は今出て来たドアーの方へ、洵吉を連れてゆくのだった。
三
その部屋は、小さな暗室になっていて、周囲《まわり》には真黒い厚ぼったいカーテンが重そうにゆるやかな襞《ひだ》をうって垂下っている中に、小さい赤燈が、ぼんやりと、いまにも絶入りそうな弱い光の輪を描いていた。
「中学時代の友だちっていうものは懐しいね、全く久しぶりだからなあ、あの浅草で逢ったなんて、実に偶然なチャンスだ」
水木は、如何にも懐しそうに、そういって、ドアーをばたん[#「ばたん」に傍点]と閉めてから、赤燈のかげで、水を測っては、白い器の中に、流《ながし》始めた。
洵吉は、その器用に動く、綺麗な指先を見つめながら
「うん、全く久しぶりだった。……君は何故こう写真が好きなんだろう、学校時代も、有名な写真気違いだったな……」
水木は白い器の中に卵色の乾版を入れると、ゆらゆらとゆらし始めていたが、この寺田の言葉を聞くと、流石に一寸苦笑したようだった。でも、直ぐ真面目な顔になって、
「君、僕はこの気分[#「気分」に傍点]が、たまらなく好きなんだよ、誰になんといわれようと、そんなことは、平気なもんさ、見たまえこのなんにも見えなかった乾版から、景色でも、顔でも……ソラこういう風に、影のように出てくるだろう、僕にはこの気持がぞくぞくするほど、たまらなく嬉しいんだ。
このなんにも見えない乾版から、今度は何が出て来るだろう、と思う時の軽い(そして快よい)興奮は、君にも充分わかってもらえると思うよ。
遠《と》うに忘れちまった顔でも、皺一本違わずに、恐ろしいほど正確に、現われてくるじゃないか……写真は五官を超越した神秘が、美しく絵を形造っているんだ。僕はこの写真というもんに溺れ切てしまった自分自身を、却ってトテモ幸福なやつだと思っているよ」
そう呟くようにいっている水木の蒼白い顔は、赤燈の光りを吸って、脳溢血患者のような、無気味な色になって闇に浮出し、あの、真赤な脣はここでは寧ろ緑色にさえ見えるのだった。
――だが、そうして寺田も、この現像の操作を見ている中、あの滑々《すべすべ》とした乾版の片隅に、ぽつんと薄黒い汚点《しみ》が浮くと急にそれが、乾版一杯に拡がって、不思議な映像を造ってゆく時の、あの何ともいえない期待に、強い魅力を感じ、幾枚かの現像を手伝っている中に、彼も何時か水木と同じように写真によって始めて、胸の引きしめられるような、陶酔感を覚えて来るのだった……。
やっと現像が一通り終ると、今度は焼付けをする筈なのだが、まだ乾版が水で濡れているので、一先ず一服しよう、と先刻《さっき》洵吉が蒼くなって驚いたあの異様な引伸し写真が壁一面に貼ってある部屋に出た。
あの真暗な闇の中に喘ぐ、赤燈の雰囲気は、如何にも弱々しいものだったけれど、それはタッタあれだけの時間の中に寺田に未知の世界を知らせ、そして、洵吉自身の気持を急廻転させる妖しい力を持っていた。
寺田はもう微塵も、それらの妖しい写真に、圧力を感じなかった。いや寧ろ、その悪夢のように繰りひろげられた、醜悪な写真が眼にはいると、足早に近寄り、厭《あ》かず沁々《しみじみ》と見詰めるのであった。
その肌は尨大に拡大されて、一つ一つの毛穴が、まるで月面の天体写真を見るようであり、又、それからむくむくと生え上ったうぶ[#「うぶ」に傍点]毛が、或るものは聳《そび》え、或るものは肌にからみ又或るものはその先が二股に分かれているのが、がらり[#「がらり」に傍点]と性格の変って仕舞ったような洵吉には、何故か、訳のわからぬ嬉しさを感じさせるのだ。
彼はもう水木のことも忘れ、壁に貼られた写真の高さにつれて、伸び上ったり、屈み込んだりして、なめ[#「なめ」に傍点]るような観賞をほしいまま[#「ほしいまま」に傍点]にして行くうち、洵吉は、いよいよこれらの写真から音もなく匍《は》い出る妖しい波動に、シッカリと身動きも出来ぬほど固く、心を奪われてしまった。
それは全く、素晴らしい芸術の極地のように思われた。
ずたずたに切られ、夢のように拡大された頸、
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