魔像
蘭郁二郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)当《あて》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)寺田|洵吉《じゅんきち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+息」、130−13]《ほっ》
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       一

 寺田|洵吉《じゅんきち》は今日も、朝から方々職を探してみたが、何処にもないとわかると、もう毎度のことだったが、やっぱり、又新たな失望を味って、当《あて》もなく歩いている中、知らず知らずに浅草公園に出ているのであった。
 ――これは寺田の「淋しい日課」だった。郷里《くに》で除隊されると、もう田舎で暮すのがバカバカしくてならず、色々考えた末、東京のタッタ一人の叔父を頼って、家を飛出しては来たものの、叔父の生活とて、彼を遊ばせておくほどの余裕はなかった。そして、彼の淋しい日課は始まったのだ。
 寺田は、溜息と一緒に公園へ出ると、なかば習慣的に瓢箪《ひょうたん》池に突出した藤棚の下に行き、何処かでメタン瓦斯《ガス》の発生《わく》ような、陰惨な音を聴きながらぼんやりとして、あくどい色をした各常設館の広告旗が、五彩の暴風雨《あらし》のように、やけにヒステルカルに、はたはたと乱れるのを見詰めていた。
(相変らず凄い人出だなア――)
 そう我知らず呟いた時、フト思い出したのは、此処で二三日前、偶然に行逢った中学時代の同級生|水木《みずき》のことだった。
 それと同時に、
(あの水木のところへ行けば、何かツテがあるかも知れない)
 と、思いつくと、それを今迄、忘れていたのが、大損をしたような気がし、周章《あわて》てよれよれになった一張羅の洋服のあちこちのポケットを掻き廻してみた。
 あの時は全く偶然であったし、それに、裕福そうな水木の姿にいかにも自分のみじめ[#「みじめ」に傍点]な生活を見透されそうな気がして差出された名刺を、ろく[#「ろく」に傍点]に見もせずにポケットに突込み
(是非遊びに来てくれたまえ――)
 といった水木の声を、背中に聴いて、遁《に》げるように別れてしまったのだが……。
 でも、幸《さいわい》その名刺を失いもせず、くしゃくしゃ[#「くしゃくしゃ」に傍点]になってはいたが、思わぬポケットの底から拾い出すことが出来た。
 ※[#「口+息」、130−13]《ほっ》としながら、皺を伸してみると、それには(水木舜一郎、東京市杉並区荻窪二ノ四〇〇)と新東京の番地が入って清朝活字で刷られた、小綺麗な名刺だった。
 寺田は、もう一遍読みなおすと、すぐ決心をきめて蒼みどろ[#「蒼みどろ」に傍点]の臭《におい》のする藤棚の下を離れ、六区を抜けて、電車通りに急いだ。
 そして、幾度か電車を乗換えて、やっと萩窪へついたのはもう空が薄黝《うすぐろ》く褪《あ》せた頃だった。
 駅から道順を訊きながら、どんどん奥の方へはいって、小川を渡り、一群の商店街を過ぎると、もう其処は、新しく市内になったとはいえ、ごく疎《まば》らにしか人家がなかった。
 寺田洵吉は、フト郷里《くに》の荒果てた畑を偲い出しながらぐんぐん墜落する西日の中に、長い影を引ずって、幾度か道を間違えた末、やっと『水木舜一郎』の表札を発見した時は、冷々《ひえびえ》とした空気の中にも、体中がぽかぽかするのを感じた。
 彼は水木の家の北側の屋根が、硝子張りになっているのをゆっくりと見廻すと、幾らかの躊躇と一緒に玄関の戸を押開け含んだ声で案内を乞うてみた。だが、誰もいないのか、家の中は深閑として、なんの返事もなかった。
 寺田は、暫らく間をおいて、冷えて来た足を小さく動かしながら、もう一度、今度はいくらか力をこめて呼んでみた。そして、耳を澄ましてみると、何処か遠くの方で、
(誰だ――)
 という返事がしたように思えた。洵吉は伸上るように
「僕だよ、寺田、寺田洵吉だ――」
「あ、寺田君か、よく来た。今一寸、手がはなせないから上《あが》っていてくれたまえ――」
 そう返事をしたのは、矢張り遠い声であったが、確かに水木自身の声だった。
 寺田は、穢ない足を気にしながら、不案内の他人の家をうろうろして声のしたらしい部屋のドアーを、ひょいと引いて、覗き込んだ。
(お――)
 寺田は、その瞬間、思わずドキンとして、心臓がグンと激しく咽喉元に押上ったのを感じた。
 無理もない。
 正面の壁には、直径一尺もある大きな眼の玉が、勢一杯に見開らかれて、それが洞穴《ほらあな》のような、ゾッとする冷めたい視線を、彼の全身にあびせかけているのだ。
 そして、白眼に絡まった蜘蛛の巣のような血脈、林立した火箸のような睫毛《まつげ》、又その真中には、何かし
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