と交《かよ》っているという噂《うわさ》を聞いた。
そして、その男は其処《そこ》の花子という若い私娼に夢中になって「ねんね、ねんね」などと子供のように可愛がるのだそうだ、という話を、この話題に乏しい町の噂が伝えて来たのであった。
私にはその「ねんね」は「ネネ」の誤りであろうことは、すぐ想像出来たが、それと同時に、彼がネネと呼んで愛撫するという女性に、ひどく興味を覚えて来た。
(ほんとにネネのような女であろうか)
それとも、
(その女が、偶然、ネネの姉妹であったとしたら……)
あの、春日との偶然な宿命的な邂逅を思うと、そんなロマンチックな好奇心が、ついに抑えきれなくなってしまった私は、町の顔見知りを恐れて、バスにも乗らず、わざわざ歩いてその私娼窟へ行って見たのだ。
其処《そこ》は、町すみの一|廓《かく》ではあったが、しかし全然別世界のように感じられた。というのは、露地のように細い路《みち》が軒下を縦横に通じ、歩く度に、ばたんばたんとドブ板が撥返《はねかえ》って、すえ[#「すえ」に傍点]たような、一種異様な臭気が、何かしら、胸に沁みいるようにあたりに罩《こも》っていたからであった。そして、時々、蒼白いカサカサな皮膚をした若い男が、懐手《ふところで》をしながら、巧みに、ついついと角を曲って行く姿が、ふと[#「ふと」に傍点]蝙蝠《こうもり》のように錯覚されるような四辺《あたり》であった。
私は、長いこと、矢張り懐手をしてその迷路のような一廓の中を、彷徨《さまよ》い歩いた、胡粉《ごふん》を塗ったような女共の顔が、果物屋の店先きのような匂いを持って曝《さら》されていた。
然し、竟《つ》いに、春日の姿も、花子という女の姿も発見することは出来なかった。
それは、あとから考えれば、当り前であった、その噂が拡まる頃には、もう春日はその女と、太郎岬の一軒家で同棲していた、というのだから……。
遅蒔《おそまき》に、それを知った私は、いくらかの躊躇《ちゅうちょ》は感じたが、そしてその口実にあれこれとさんざ迷ったのだが、遂に好奇心の力に打まかされて訪問を決心したのは、それから又、一週間も経ってからであった。
あの崖の小径を登り切って見ると、彼は、その女と暮しながらも、猶《なお》、仕出屋の食事をつづけているらしく、勝手口の外には喰いちらかされた二人分の食器と、やっと暖かくなって来たかと思われるこの頃だのに、もうむくむくと肥った青蠅《あおばえ》が、ぶーんと飛立つのが見られ、ひどく不潔な彼の生活が其処に投出されているかのように眺められた。
春日は、ピアノも何もない殺風景な部屋の中に、垢《あか》じみた蒲団を敷っぱなして、独りゴロンと寝そべっていた。近寄って見ると、気のせいか、彼の顔色は土色に褪《あ》せ、カサカサした皮膚が、痛々しくさえ思われた。
『や――』
彼はゆっくり起上って、笑顔を見せた。
『しばらくでしたね、ま、どうぞ――』
『結婚されたそうじゃないですか』
これが、私の訪問の口実であった。
『結婚? いいや今は一緒にいる、っていうだけですよ。こんどの女もネネのように、機会さえあれば僕を踏台にしてゆこうという女ですよ、それはわかっているんだけれど、……』
『今は――』
私は一眼《ひとめ》で見渡せる家の中を、もう一遍見直した。
『いま、町まで買い物に行っていますよ』
『ばかに顔色が悪いようですが、何か――』
『これですか』
彼は痩《や》せた手で顔を撫でると、
『病気のせいでしょう……ジフィリスになってしまったんですよ、ふふふふ』
『それは――』
私は眉《まゆ》をひそめて、花子という女からだな、と思いながら、
『そんなら早く癒《なお》さなけりゃいかんでしょう、医科を卒《で》られたんだから、自分で静脈注射も出来ませんか……』
『いや、もう病気を癒そうなんて気力は、疾《と》うになくなってしまった僕ですよ。未だにそれだけの気力を持っているほどなら、一《い》ッそネネを殺ってしまっていたでしょう、ふッふふふ……ネネは僕に何一つ思い出を遺《のこ》してはくれなかったんですが、こんどの女は、こんなに消えぬ思い出を与えてくれたんです、久劫《くごう》に消えぬ、子孫にまで遺ろうという、激しい恋の思い出の華を……』
私はこの狂気《きちがい》染みた彼の言葉に、返事を忘れてしまった。
(春日は、頭を冒されたのではないか――)
×
早々に引上げた私は、その帰り道、あの崖の細路《ほそみち》の中ほどで、一人の女と行き違った。この路の果てには春日の家しかないのだから、その女が私の興味を惹《ひ》いた花子であることは疑いもないことであったけれど、その女は、余りにも、私の想像とはかけ違ったものであった。
真ッ昼間だというのに、黄色のドーラン化粧に、青のアイシャドウ、おまけに垂れ滴《したた》るような原色の脣《くちびる》をもった、まるでペンキを塗った腸詰のようなその黴毒女《ばいどくおんな》を、春日が、例え噂にもしろ「ネネ」と呼んだ、ということについては、激しい不満を感ぜずにはいられなかった。私は、すれ違った瞬間に受けた職業的な、いやらしい|流し目《ウィンク》を、いつまでも舌打ちをし乍《なが》ら思い出し、よくもまあ、あの時、崖の上から突飛ばさずに、無事に帰って来たものだ――とすら思われた。
が、しかし、考えてみると、あの一風変った春日にしてみれば、ネネも、ただあの醜い花子を美しく包装しただけであって、内容はまるで同じものだと思っているのかも知れぬ、イヤ、「美」の感点などというものは、人に依って違うのだ、彼はネネの声をほめたけれど、曾《か》つてネネの美しき容姿については一言もいってはいなかったではないか。春日はネネの声に恋していたのかも知れぬ、そして、聞いてはみないが、ひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると花子の声はネネ以上に美しいのかも知れないと思われた――でも、でも私には、余計なことかも知れないが、その花子という女は、とても我慢のならぬ代物であった。
(ネネの姉妹《きょうだい》?――)
などという甘いロマンチズムは、かくして虚空の外にケシ飛び、儚《はかな》くも粉砕してしまったのだ。
五
日増しにく暖かくなって、藤の花が一つ二つ咲きはじめた日であった。
あれから、思っただけでも虫酸《むしず》の走る花子のことを考えると、私は絶えて春日を訪れることもなかった。
海に面した縁先に、寝椅子を持出して、目をつぶった儘《まま》、
(東京へ帰ろうか――)
などと思われる日であった。
思えば、なぜ「この日」を其処で迎えてしまったのであろう。その前になぜ東京へ帰って仕舞わなかったのであろう、と悔まれるのであるが、しかし、それも亦《また》、宿命という説明し尽されぬ魔力に、まだ私は囚《とら》われていたのに違いないのだ。
それは、花子との二重写しに依って、漸《ようや》く薄れて来たネネの面影が、又々生々しく甦って来、私の胸を騒がすような事件が待設《まちもう》けていたのであった。
午後であった、しかし、まだ午《ひる》を廻って間もない時分だ。裏木戸を蹴飛ばすような騒々しい音と一緒にあの植木屋が大事件だ、というような顔をして飛んで来た。
『いま、自動車が崖から落ちて怪我人が出たというんで大変な騒ぎで……』
『ほう、東京の人かね』
『そうで……なんでも若い者のいうことでは秋本ネネとかいう女優かなんかだそうでして……』
『ナニ――』
私は、ガバとはね起きた。
『死んだか――』
その返事も聞かずに、飛出した。
太郎岬の下を廻る県道まで一気に馳けつけて見ると、成るほど一台の緑色《りょくしょく》に塗られた新型のクウペが、玩具《おもちゃ》のように二丈ばかりもある岩磯の下に転げ込み、仰向《あおむけ》にひっくりかえって、血かガソリンか、其処らの岩肌には点々と汚点が飛んでい、早くも馳けつけた青年団の連中が、その車の下から、一人の男を引《ひき》ずり出しているところであった。
その傍《そば》の岩の上には、あの、ネネが、前よりも一層美しくなったように思われるネネが、喪心《そうしん》したように突立って、手を握りしめ、帽子を飛してしまった頭髪《かみのけ》を塩風に靡《なび》かせながら、凝乎《じっ》と、青年団の作業を見守っているのであった。
(ネネは怪我をしていない――)
私は、「ネネ、ネネ」と大声で呼びたい心をやっと押えつけて、転がるように磯にまで行ったが、さて、真近に行って声をかけようとした時、又もグッとその声を飲んでしまった。
其処に、春日がいるのである。
『やあ――』
私は、わざとゆっくり声をかけた。ネネは素早い視線で私達を認めると、流石《さすが》に、はっ[#「はっ」に傍点]とした心の動揺は隠せなかったらしい。
『…………』
唯、無言で頷《うなず》いたきりであった。そして又、ちらりと春日の横顔を偸見《ぬすみみ》た。
『怪我はしませんか』
私が訊いた。
『ええ、あたしは……あら、どうでしょう』
彼女はいきなり自動車から引出された男のそばに馳《かけ》寄った。そこにぐったり寝て、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に血の塊りをつけた男は木島三郎であった。私がぐずぐずしている間《ま》に、春日はその木島を抱え起し、脈を診ると、
『まだ大丈夫だ、すぐ手当をすれば受合《うけあ》う……』
『そう、それじゃすぐ病院へ……』
――手廻しよく呼ばれて来たタキシーで、木島をはじめ私達四人は、すぐこの町で一番大きい村田医院へかけつけた。
折よく村田氏は在院していてしばらく春日と何か専門語で話合った揚句《あげく》、春日は、
『ネネさん、一刻を争いますから僕が血を提供して輸血します』
『え? あたしも、あたしの血も採って……』
ネネは、この春日の、思いがけぬ義侠的な言葉に、却《かえ》ってひどく狼狽《ろうばい》したようであった。
村田氏は構わず春日とネネの耳朶《みみたぶ》から一滴ずつの血を載物硝子《さいぶつガラス》の上に採ると、簡単な操作を加えてから、
『秋本さん、あなたのは合いません、春日さんのは幸い合っていますから春日さんから輸血させて戴きます……』
『さ、すぐやって下さい』
春日は、平然としていった。
ネネは、感極《かんきわ》まったように、手を堅く握りしめて胸のところに合せた儘《まま》、眉一つ動かさぬ春日の横顔を見守っていた。
私は、春日の血液が、様々な硝子器具を通って、木島の体へ送られて行くのをじっと見乍《みなが》ら、フト、
(春日はジフィリスだったが……)
と思った、と同時に、愕然《がくぜん》とした。春日は今、ネネの眼の前で復讐をしつつあるのだ。彼からネネを奪った男の体に、忌《い》み嫌われた細菌の群が、真赤な行列をつくって移されているのだ……。
それをネネは心からの感謝をもって見ている……。
春日は、平然と、寧《むし》ろ、心地よさそうに眼をつぶっている。
そして、そのわずかばかり口元を歪めて笑った顔は、あの最初の邂逅《かいこう》の夜に、私を慄然《ぞっ》とさせたのと同じ、鬼気を含んだ微笑《ほほえみ》であった――。
私はジッと見詰めている中《うち》に、握りしめた掌《て》や脇の下からネトネトとした脂汗が滲出《にじみで》、眼も頭も眩暈《くら》みそうな心の動揺に、どうしてもその部屋を抜出さずにはいられなかった。
ともすれば、眼の前にちらつく、ネネの感謝の瞳《ひとみ》が、たまらなかったのである。
×
木島は、この時宜《じぎ》を得た処置のためか、ぐんぐん恢復して軈《やが》て、東京に帰って行った。
『君、少しひどすぎないかね。君も医者ならあんまりじゃないか――』
二人っきりになった時に、私は春日を詰《なじ》った。
『――なるほど、病気にはなるかも知れんが、しかし命は助かるじゃないか。僕は医者のつとめは十分に果したのだ』
『だが、これは僕だけの想像だが、木島は本当にあの時、輸血を必要としたのだろうか……』
春日は、それを聞く
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