る人が沢山にいるそうですが、どうもうまく行かんそうです、それはゴムを分析して、ゴムを形成している元素に分析して、斯《こ》うでなければならぬ、という十分の化学式を発見《みつけ》ます。それは既に発見られたのです、だから、その化学式を満足させるようなものを合成すればいい訳ですが、ところが化学式には「弾力」というものが表わせません、ゴムの生命ともいっていい弾力が表わせないんです、それが合成して目出度《めでた》く出来上ったものは、一見ゴムみたいなものでありながら、弾力のない、くだらぬものでしかなかった、という、まあそんな訳ですが、失礼ですが、あなたの場合、音譜に「音色《ねいろ》」というものが表わせるでしょうか「音色」という弾力を、マキシマムに発揮しなければ、その流行歌は人の心を、芯底から搏《う》つものとは思われませんね。
また、流行歌に限らず、私は「流行」というものにはひどい疑惑をもっているんです、流行というのは、恰度《ちょうど》恋愛みたいなもので、その時は最上無二のように思われるんですが、さて、あとから見てどうでしょう……』
『君』
その男は、激しく私の言葉を遮った。
『君、しかし誰が僕の作曲した歌を唄うと思っているんですか、僕が、僕がすべてを抛《なげう》ってこんなに苦しみ通しているのは誰の為にだと思うんです、彼女、彼女のために、ですよ、彼女は実に素晴らしい声を持っているんですぜ、その合成ゴムに於《お》ける弾力とかいう奴を、彼女は十二分に持っているんです……全然、あなたの危惧《きぐ》ですよ、
僕がすべてを抛って悔まぬ彼女、それは、最近だいぶ方々《ほうぼう》に名が出て来たようですが、非常に素質のいいステージシンガーです、――レコードにも相当吹きこんだようですから、或《あるい》は知っていられるかも知れません――、秋本ネネという、まだ二十歳《はたち》の女ですが』
『えッ』
私は愕然《がくぜん》とした。まったく、その時は、自分でも顔色がサッと変ったのを意識した――。私を、こんな失意の底に投込んでしまったその女、ネネが、この変屈者の愛人であるとは……。
然《しか》し、そうすると、今、木島と同棲《どうせい》している彼女は、私と同様、矢張りこの男のことをも忘れてしまったのであろうか。
(渡り鳥のようなネネ!)
私は眼をつぶった。そして、
(そうかも知れぬ)
と、口の中で呟《つぶや》いた。
三
『何を驚かれたのです、あなたは、ネネをご存知なのですか……』
その哀れな男は、不安そうに眉《まゆ》を寄せると、じっ[#「じっ」に傍点]と私の顔を覗込《のぞきこ》んだ。
『………』
しばらく躊躇《ためら》ったけれど、本当のことをいってしまう以外に、私の驚きの意味を、この男に呑込ませることは出来まいと思った。
『驚きました、驚きましたよ、そのネネという女に、この私も恋をしたのです』
『え、ネネに――。で、どうでした。ネネはあなたに何んといいました?』
『ふっふふふ……私が、こんな淋しい町に一人ぽっちで神経衰弱を養いに来ていることで十分おわかりでしょう』
『そうですか、あなたは失恋したのですね、お気の毒ですが――。でも、悪く思わないで下さい。ネネには僕と前からの約束があったんですから……』
男は、かすかに現われた安堵の表情を、強いて隠すように嗄《か》すれた小声でいった。
だが、私は眼をつぶって、
『いや、ネネは結婚したんです――』
『えッ』
その男の驚きの声が、いきなり私の眼をつぶった耳元でした。それはハッハッというような、激しい呼吸の音と一緒であった。
そして、「まさか……冗談でしょう」といいたげな彼の気持を、十分に感じた私は、猶《なお》も眼をつぶった儘、二三度頭を振って、
『結婚したんですよ、本当に――。その為に私は失恋《ふら》れたんです。ご存知かも知れません、木島三郎という男のところへ行ったのです』
『ああ、木島。東洋劇場の支配人……だった』
『そうです。若くて、金があって、しかもいい地位にいる、あの男です。私は残念ながら、ネネを最後まで満足させることが出来なかったんです、ネネは大勢の人々に讃美|渇仰《かつごう》される為には、何物も惜しまぬ女ですからね。ネネは例えば心の底では一人の男を愛してはいても、それが守って行けない女なのです。彼女は本当に都会の泡沫《あわ》の中から現われた美しい蜉蝣《かげろう》ですよ、ネネは、その僅《わず》かな青春のうちに、最も多くの人から注目されたい、という、どの女にもあるその気持を、特に多分に、露骨に持っただけなんですね。
あの、華やかなスポットライトに浮び出た彼女の厚いドーラン化粧の下にも、その焦燥が痛々しく窺《うかが》われるではありませんか。私はその気持を、ネネの撓《たゆ》まぬ向上心だと思って愛しました。しかし、彼女は、私が仕得《しえ》られるだけのことをして、どうにか世の中に出したかと思うと、すぐ次へ移って行ったんです、あの大劇場の支配人だという木島のところへ――。あの男の地位は、ネネにとって大変役立つことに違いありません、だから、ネネにとっては、私などよりも、ずっとずっと強い吸引力を持つその地位に引かれて行ったのも、考えてみれば無理からぬことなのですけど、でも、お羞《はず》かしいことには、とり残された私は、神経衰弱になってしまったというわけなんです――』
思わず饒舌《じょうぜつ》に、さも悟ったかのように、そういった私は、ここで笑って見せねばならぬ、と知ったが、わずかに片頬《かたほほ》が痙攣《けいれん》したように歪《ゆが》んだきりであった。
『そうですか――』
しばらく経って、その男は重たげに顔を上げた。その額《ひたい》には、この世のものとも思われぬ、激しい苦悩のたて皺《じわ》が刻込《きざみこ》まれ、強いて怺《こら》える息使いと一緒に、眼尻から顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にかけての薄い皮膚がぴくぴくと顫《ふる》え、突然気がついたようにタバコをつけると、スパスパと咽喉《のど》を鳴らして吸った。
『そうですか、ネネは、ネネはもう僕を忘れてしまったのですね……僕はネネの為に、囚人のような生活を苦しみつづけて来たのだけれど、ネネはそれを待っていてはくれなかったのだ、
同じ女を愛し、そして、その女から飛去られた二人が、偶然に邂《めぐ》り合うとは……』
其処《そこ》で二人は、無意味に、
『ふふふふ……』
と笑合《わらいあ》ったが、それもすぐに杜絶《とだ》えてしまった。
深閑とした部屋の中に、天井から蜘蛛《くも》のようにぶら下った電球《たま》の下で、この哀れな二人の男は、不自然に向き合った儘《まま》黙々として畳の目を睨《にら》み、タバコをふかしていた。
それぞれの胸の中には、あのネネの姿体《したい》が様々なかたちで浮《うか》び出《いで》、流れ去っていた。
が、そればかりではなく、私はこの偶然な邂逅《かいこう》という宿命的な出来事に、ひどく搏《う》たれてしまったのだ。そして、この寂しい部屋の中にまで響いて来る風の音、潮のさわぎまでが何かしら宿命的な韻律をもって結ばれているのではないか、と疑われて来るのであった。夜の更けたせいか、一瞬、寒む寒むとしたものを感じた私は、ほっと重い溜息《ためいき》を落したのと共に、鈍い音をたてた柱時計に気がついた。
『――じゃ、失礼します、どうも大変お邪魔してしまって……』
嗄《しわが》れた咽喉《のど》から咳払《せきばら》いと一緒にいった。
『おや、そうですか』
そういって、その男も気がついたように上げた顔は、思わずドキンとするほどの殺気を持って歪んでいた。その血ばしった眼、心もち紅潮させた蒼黒い皮膚の下には、悪鬼の血潮が脈々と波打っているかのようであった。
私はその時確かに彼の周囲に慄然《ゾッ》とするような鬼気を感じた。
(この私でさえ、あの時は一思いにネネを殺して自分も死のうか、とすら思ったのだから)
と、この男が、今|抱《いだ》いているであろう血腥《ちなまぐさ》い想像の姿が私にはアリアリと写るのであった。
そして又、気の弱い私には、到頭《とうとう》それは実行出来なかったけれど、この、狂気染みた男なら、或はそれをやってのけるかも知れない、というありそうな怖れに、思わず胸の鼓動がどきどきと昂《たか》まって来るのであった。
そしてそれが、このネネを囲んだ三人の間の、宿命なのかも知れぬ、とすら思われた。
――然し、その男は、思ったより落著いた口調で、
『や、どうも遅くまで引止めてしまって、却《かえ》って済みませんでしたね、もうお休みですか――』
と、ゆっくりいって、淋しく笑った。
『いや――、どうも近頃少しも寝られなくて閉口しているんですよ』
私も、さり気なく答えて、又タバコを咥《くわ》えた。
『そうですか、それは困りますね、こういう薬があるんですが、飲んでみませんか、よく利きますよ』
そういうと、その男は、机の抽斗《ひきだし》から名刺を出して、その裏に、すらすらと処方を書いてくれた。受取って表《おも》てをかえして見ると、そこには「医師、春日行彦《かすがゆきひこ》」とあった。
私は彼から懐中電燈を借りると、危なっかしい小径《こみち》を分けて、町へ帰って来ながら、まだ起きていた一軒の薬局へ寄って、
『この薬をくれたまえ――』
といってから、
『この薬の中には毒になるようなものはないね』
と確《たしか》め、
『ございません、神経衰弱の薬として、立派な処方と思います』
そういった薬剤師の言葉に、あのゾッとするような顔は、ネネ一人に向けられたものだったのか、と頷《うなず》かれた。
尤《もっと》も、私は遂に、その薬には手をつけず、アダリンの売薬を買って済まして仕舞ったのだが……。
四
翌日。私は昨夜借りて帰った懐中電燈を返すのを口実に、春日の家へ行って見た。
行ったのは、もうお午《ひる》をまわっていたが、勝手口のところには、疾《と》うに冷め切った味噌汁《おみおつけ》を入れた琺瑯《ほうろう》の壜《びん》と一緒に、朝食と昼食の二食分が、手もつけられずに置かれてあるのを見、
(留守かな――)
とも思ったが、案外、彼はすぐ声に応じて出て来た。
『ゆうべは失礼しました』
『いや、僕こそ、……どうぞ上って下さい』
私は、何気なく上ろうとして、一眼《ひとめ》で見渡せるこの家の中の、余りの乱雑さに、思わず足が止ってしまった。
その、二間だけの座敷全体には、ずたずたに引裂かれた楽譜や五線紙が、暴風雨《あらし》の跡のように撒《ま》きちらかされ、そればかりではなく、あの高価らしい漆黒《しっこく》のピアノまでが、真ン中から鉈《なた》でも打込んだように、二つにへし[#「へし」に傍点]折れているのであった。
春日は、眩《まぶ》しげに顔を外向《そむ》けて苦笑いをし、
『どうぞ、どうぞ……』
といい乍《なが》ら、楽譜の反古《ほご》を掻分《かきわ》けて僅かばかりの席をつくってくれたが、
『いや、いいんですよ。今|一寸《ちょっと》用があるんで、又来ますから、……これをお返しに来たんです、じゃ、また晩にでも……』
私は懐中電燈を置くと、わざと座敷の中から眼を外《そ》らして何んにも見なかったように、さも忙しそうに、早々と崖を下《お》りはじめた。なんだか、彼の一ヶ年の苦心を一瞬にぶち[#「ぶち」に傍点]壊してしまった心の苦悶が、特に私にだけよく解るような気がし肉親の苦しみを見るような、胸の痛みを覚えたのであった。
――それっきり、彼は黄昏《たそがれ》の散歩にも現われなかった。それを心配して私は二三度彼の家を訪ねて見たが、昼も夜も、いつも春日は不在であった。そして、何時か私の足も遠のいてしまった。
――その中《うち》に、私の借りている別荘を管理している植木屋の口から、太郎岬の一軒家にいる変り者の男が、何を思ったのか、近頃しきりと、この町からバスの通じている隣り町まで行き、そこの私娼窟《ししょうくつ》にせっせ
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