ネオンライト一つない町に、進んで来たわけではなかったが、医者に相当ひどい神経衰弱だ、といわれたのを機会《しお》に、失恋の東京から、暫《しばら》く遠ざかるのもよかろうと、小別荘を借りて移って来たのだ。
 東京との交渉は、月の下旬に、老いた母の手を通して送られて来る、生活費に添えられた手紙と、それに対する私の簡単な返事とだけであった。汽車に乗れば、たった二時間たらずの処《ところ》でありながら、それ以上の交渉を、わざと執《と》ろうとはしなかった。それは東京の何処《どこ》かに、ネネ(ああ、私は今でも、曾《か》つて恋人と呼んだ彼女の姿体《すがた》をハッキリと思い出すことが出来る、しかし、それも、不図《ふと》女優などの顔を思い出した時のような、妙に期待めいたものは寸毫《すんごう》もなく、狂おしくも無慙《むざん》な、苦しみを伴なった思い出なのではあるが……)そのネネが、新しき情人、木島《きじま》三郎と、親しく暮しているであろうことを思うと、それだけで東京全体が、ひどく穢《けがら》わしく淫《みだ》らがましく、酸ッぱいものが咽喉《のど》の奥にこみ上って来るのだ。
(それを忘れるまで、東京へは帰るまい……
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