とサッと顔色をかえた。しかし、しばらくして首を振りながら、
『それは君の想像にまかせる……だが、君自身は輸血をしようとは義理にもいわなかったじゃないか……。ネネは僕に感謝していたぞ。そして、木島とはただの友人にしか過ぎない、私はただあの人の地位を利用しようとして、誘いを断り切れず、ドライヴに来たのだけれど、木島が片手で運転しながら片手で私の肩を抱きすくめたので、それを振り払った途端、カーヴを切り損《そこな》ってあんなことになってしまったのです、と涙を流して言っていたんだ。そして、この来月末にある公演の主役をすましたら屹度《きっと》僕のところへ帰って来るというのだ。――これも、君が信じようと信じまいと、どちらでもいいのだがね、兎《と》も角《かく》、僕も今度は病気を癒《なお》そうと思う……』
彼は、ゆるやかに口笛を吹くと、やがて、空中で、いきなりピアノを弾くように両手を踊らせ、あはははは、と笑った。
『信じられぬ……』
私は、反撥的にそう呟《つぶや》いた、しかしその語尾は淡く消えてしまった。
私も亦《また》、彼にとっては敵の一人であったのだ。この背負投げは、事実であるかも知れぬ……。口惜《くちおし》くも私は半信半疑の靄《もや》につつまれて来るのであった。――
六
既に、ネネと木島とが東京へ帰ってから、三月が経った。
春日のところへ、ネネが来るのを待っていた訳ではないのだが、あの気まずい別れぎわの春日の揚言《ようげん》と哄笑《こうしょう》とが、私の耳の底に凝着《こびりつ》き、何とはなくぐずぐずしている中《うち》に、もう、明るい陽射しの中を、色鮮やかな赤蜻蛉《あかとんぼ》の群が、ツイツイと庭先の大和垣《やまとがき》の上をかすめるような時候になってしまった。私は、その夏ほど、重くるしい暑さに訶《さいな》まれたことはなかった。来る年々の夏は、なるほど暑いものではあったが、しかし紺碧《こんぺき》の大穹《おおぞら》と、純白な雲の峰と、身軽な生活とから、私の好きな気候であった筈なのだが――。
春日のところへも、ネネから、一向音沙汰がないらしかった。それは、若《も》し彼をよろこばすような便りでも来れば、あの男には、とても私に話し誇らずにはいられないであろうことからも、容易に想像出来た。
その中《うち》、人の噂に、花子が又もとの所で商売に出ている、ということ
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