白金神経の少女
蘭郁二郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黄昏《たそがれ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)椅子|卓子《テーブル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「赤+報のつくり」、178−5]《あか》らんだ
−−

     バー・オパール

 日が暮れて、まだ間もない時分だった。
 街の上には、いつものように黄昏《たそがれ》の遽《あわた》だしさが流れて、昼の銀座から、第二の銀座に変貌しつつあった。が、この地下の一室に設けられたバー・オパールの空気だけは、森閑《しんかん》として、このバーが設けられて以来の、変りない薄暗さの中に沈淪《ちんりん》していた。バー・オパールは昼も夜も、いつもこのように静かで暗かった。
 この騒然たる大都会のしかも都心に、このようにポツンと忘れられ、取りのこされているバーがあろうとは――私は、偶然にそのドアを押した瞬間から、そのなんとなく変った雰囲気に、搏《う》たれてしまったのである。
 このバーは酒場というよりも応接間、といった方が相応《ふさわ》しかった。四坪ばかりの小ぢんまりしたその部屋に、これは又――いささか古くはあったが――一流の豪華サロンに見るような、王朝風の彫刻をもったどっしりした椅子|卓子《テーブル》が、ただ投出すように置いてある、そして、それらを広東更紗《カントンさらさ》の電燈笠《シェード》から落ちる光りが、仄々《ほのぼの》と浮出さしているのであった。――そういえば、このバーへの入口が、実に妙であった。相当銀座の地理には明るいつもりでいた私も、今日、今さっきはじめて此処《ここ》を見付けたばかりなのである。川ッぺりのビルとビルとに挟まれた狭い露地――その奥の、ビルの宿直部屋にでも下りるような階段を下りると、その突当りに“Bar Opal”と、素人細工らしい小さい木彫のネームがぶら下っていた。
 だからあの時、私がふと小用を催さなかったならば、このバーの存在を知らずに過してしまったであろうし、又、これから記すような、奇妙な事件にも遭《あ》わなかった筈なのである。
 ところで、このようなバーにも先客が一人いた。それは、部屋の片隅の椅子に、雑巾のように腰をかけ、ちびりちびりとグラスを舐め、或いは何か物に憑かれたような熱心さで手帳に鉛筆を走らせている老人であった。十年一日のような疲れた黒洋服、申訳ばかりのネクタイを絡みつけた鼠のワイシャツ――。だが卵で洗ったような見事な銀髪と、時々挙げる顔の、深い皺をもった広い額とは、ふと近より難い威厳を見せてもいた。
 私の方では、はじめから気がついていたのだが、老人の方では、ややしばらく経ってからやっと気がついたらしく――、しかし気がつくとすぐ椅子を立って私の方にやって来た。そして、何かと話しかけるのである。
 はじめのうちは、都会人らしく打解けずに、肩を聳《そびや》かしていた私も、この老人の、様子に似合わぬ若々しい声と、それに私自身、いつになくアルコオルが廻っていたせいか、何時の間にか受け答えをしてしまっているのであった。
 すると、この鷲尾と名乗る老人が、凡《およ》そ不似合な恋愛にまで触れて来たのである。
「河井さん――、といいましたね、いかがです、恋愛についての御意見はありませんか」
「レン愛――?」
「そうですよ、男女の――。お若いあなただ、豊富でしょうが」
「いや、そんなもんありませんよ、ほんとに」
「おやおや。そうですかなア……。でも、その恋愛の本質について、考えられたことがありませんか、――例えばですねえ、電気って奴は、陰と陽とがあって、お互いに吸引する。が、同性は反撥する――ネ、一寸、似てるじゃありませんか。一緒になるまでは障害物を乗越えて、火花を散らしてまでも、という大変な力を出しながら、さて放電《ディスチャージ》してしまうと、淡々《たんたん》水の如く無に還るという――、面白いじゃありませんか」
 鷲尾老人は、なかなかに能弁であった。時たまグラスを口に運ぶだけで、この奇妙な恋愛電気学を、ながながと述べはじめたのである。
「あなたが、恋をしたとしますよ、するとですね、彼女があなたを如何に思っているかというのが、気懸《きがか》りでしょう。そして、よりよく想ってもらいたい、と思いませんか、それが人情ですね、しからば――ですネ、一体どうしたらいいか、どうしたならば彼女の気持を、あなたに対して増大《エンラージ》させることが出来るか?」
 それは教師が、起立を命じた生徒に、ものを問い糺《ただ》すような、口調であった。
 私は弱って
「さあ――」
 と、口籠《くちごも》っていると
「わからんでしょう――。それは人間の方から考えるから解らんのですよ、さっきいったように、恋愛現象を電気現象と見て、電気の方から考えれば、数学的に一目瞭然たる結果が出て来るんですよ。――あなたはまだお若いし、これから大いに利用価値のある問題だ、よく聞いていて下さい」
 鷲尾老人は、そういって、にたりと微笑みをもらし、内ポケットから手帳を出して、テーブルの上に拡げた。

     恋愛電気学

「先ず結果からいいますよ、あなたはビオ・サヴァルの法則っていうのを知っていますか――」
「さあ――、一向に」
「そうですか、それはこういう式です」
 と老人は鉛筆をとって、手帳に次のような式を書いた。
[#ここから5字下げ、ここから数式]
dH = K. ids・sinθ/r2[#「2」は上付き小文字][#「ids・sinθ/r2[#「2」は上付き小文字]」は分数]
[#ここで字下げ終わり、ここで数式終わり]
「――この式で dH というのは、求めるところの彼女の心臓に及ぼすあなたの電流――ではない、恋流の強さですよ。だいたい人間が恋をしますとネ、丁度電線に電流が通ると、その周りに磁界というものが出ると同じようになんかこう甘い――というか一種の雰囲気が出るもんらしいですナ、――これは昔からいわれていますよ、そら、あの『忍ぶれど色に出にけり我が恋は……』という歌がある位で、感じのいい者にはすぐわかるこの一種の雰囲気をですね、どの程度に彼女が感ずるか、どうしたらもっともっと強く感じさせることが出来るか――という重大なる問題の答がこの式です、この式で(i. ds)というのは、iはあなたの恋流の強さ、ds というのがあなたの心臓ですよ。だからこの二つのものはあなたの心臓に流れる恋流を表しているんです。それから sinθは向きの角度に影響があることを示している、つまりそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向いとっちゃいかん――というわけ。下のrはあなたと彼女との距離を示しておる。恋愛はその二人の間の距離の、しかも自乗に逆比例していることを如実に示しておるわけですよ。だから四尺はなれている時より、二尺の距離になったら四倍、一尺になったら四尺の時に比べて、途端に九倍となって飛躍するわけですナ、――どうです、思いあたりませんか? 又こいつが離れるとなると、どんどん小さくなってしまいますからね、逢わずにいれば、やがて忘れてしまうのはこの辺の消息を物語っていますよ、だから、あなたが彼女の意を迎えんとするならば、じゃね、大いに恋流を流し、そっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向かず、しかも彼女との距離をグンと縮めろ――ということにありますナ……」
 老人は、まるで青年のような口調でそういうと、自分で自分の説に、こっくりと一つ頷いた。
「なるほど、面白いですナ」
 知らず知らず釣りこまれて聞いていた私は、思わず相槌を打ち、それと同時に、自分が話にばかり気をとられていて、このバーに来てから、まだ何も注文していなかったのに気づいた。そしてあたりを見廻して見た。しかしこのバーは、二人をのこして森閑として静まりかえっているのであった。そういえば、先刻《さっき》から話しこんでいるのに、一向注文を聞きに来ようとする気配もなかったようである。
 私が、困惑した眼で見廻しているのに気づいた老人は
「あ、そうそう、なんか取りますか、注文だったらそのボタンを押すんですよ」
 と、テーブルの端についている小さい押釦《おしぼたん》を指さした。いわれて見ると、どのテーブルにもそんな押釦がつけられている。
「妙な仕掛になってますなア……」
 私は、半ば唖《あ》ッ気《け》にとられながら、その釦を押した。何処かで、かすかに合図の鈴《ベル》が鳴ったようだ――。どうも実に風変りなバー・オパールである。
 が――。その次の瞬間に、私は、なお一層驚いてしまったのである。
 それは、今押した呼鈴の響きに応じて、奥のドアーを排して現われた少女の、その余りの美しさから来る驚きであった。この燻《くす》んだようなバー・オパールの雰囲気とは凡そ正反対な、俗にいう眼の覚めるような美少女がまるで手品のように忽然と現われたのである。呼鈴を押したのだから誰かが現われることはあたりまえなのだが、その少女があまりにも私の好みを備えすぎていたせいか、ふと手品を連想したほどであった。
 夢幻織《シャムルーズ》のワンピースが、まるで塑像をみるように、ぴったりと体の線を浮出さしていた、そして、その艶々と濡れたような円《つぶ》らな瞳を、ジッと私に灑《そそ》ぎかけていた。しかし一ト言も口をきかなかった。『いらっしゃいませ』もいわないのである。それでいて、私はその瞳の中から柔かい言葉を、いくつか囁かれたような気がしたのであった。
 彼女は、私の注文を聞くと、一揖《いちゆう》してくるッと背後《うしろ》を向き、来た時と同じように四つ足半の足|巾《はば》で、ドアーの奥に消えて行った。
 と同時に、私は思わず外聞も忘れてホッと溜息をついた。が、この美しい彼女の歩き方には、何処となく少々ぎこち[#「ぎこち」に傍点]ないところがあったように見えたのだが、それは、後で思いあたったことである。

     地底の研究室

「ふっふっふっ……」
 鷲尾老人は、そう忍びやかに笑うと
「だいぶ、参ったようですナ」
 そういわれて我に還った私は、いつになく耳朶《みみたぶ》がぽっと※[#「赤+報のつくり」、178−5]《あか》らんだのを意識しながら
「いや――。それはそうとさっきの式の中にですねKというのがあったようですが、それはどんなことを表わしているんですか」
「はッははは、早速この式を利用しようというんですか――、なるほど、なるほど、はッははは、Kというのはね。或る係数ですよ、これは、その時の状態によって加減しなければならん[#「しなければならん」は底本では「しなけれならん」]数を表しているんです――、が、まアあの木美子《きみこ》だけはお止《よ》しなさい、木美子の場合にとっては、この係数が零《ゼロ》なんですよ、だからこの式に零《ゼロ》をかければ、結局全部が零《ゼロ》になってしまって、一向に反応がない、ということになりますからネ」
「しかし……」
 私がいいかけた時に、又ドアーが開いた。
 現われた彼女は、さっきと同じように四ツ足半の足巾でドアーからのテーブルに来、左手でグラスを置いて、又機械のように正確な足巾でドアーの奥に消えて行った。
「おや? 彼女は左ぎっちょ[#「ぎっちょ」に傍点]ですかね」
 私が呟くのを聞いた鷲尾老人は、何を思ったのか
「えらい! 君はなかなか見所があるですぞ――」
 私がびっくりしているのも構わずに
「うむ、なかなか観察が鋭い、君ならば或いはわし[#「わし」に傍点]のいうことがわかってくれるかも知れんナ――どうじゃ、わし[#「わし」に傍点]の研究室に来て見ないかね」
「いや――、しかし……」
「遠慮は無用。君はわし[#「わし」に傍点]の人物試験にパスしたんじゃ……だからいうが、わしはこのバーの主人なんじゃよ」
 私は、あなた[#「あなた」に傍点]から君に変り、そうじゃ[#「じゃ」に傍点]、そうじゃ[#「じゃ」に傍点]という老人臭い口調に変り、そして又、このバーの主人なんじゃと名乗られたことに、
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング