いささか面喰《めんくら》ったかたちであったのだが、
「なアに、研究室といったって、この奥じゃよ、それに、助手としては、あの木美子一人きりじゃからナ、遠慮することはないよ」
という説明を聞かされて、行って見るだけでも行って見ようか、という気が起って来た。それは老人への好奇心ばかりではなく、あの木美子という美少女が助手である、ということに魅《ひ》かされたのであることが、もっと大きな原因でもあった。
「――そうか、ではすぐ行って見るかの」
そういうと鷲尾老人は、先きにたってドアーを潜った。年齢《とし》は幾つ位かわからなかったけれど、そんな言葉使いをしたり、こうして先に立って歩いているのを見ると、少くとも六十は越しているらしかった。(木美子というのは十八九に見えるけど、この老人の娘かな……それにしては余り似ていないようだが……)
などと考えながら、私は従って行った。ドアーの奥には小さい棚があって、洋酒の壜が申訳ばかりに七八本並んでいるきりで、彼女の姿はなかった。とにかくこの棚は、一寸した酒呑みの台所にも劣る心細いバーである。
私は、急に酔いが覚めるような、肌寒さを襟に感じた。そういえばこの細い道は、地下室からなおも下りになっていて、やがて素人が削ったような無細工な階段を下りると、その終るところの横に、煉瓦を抜取った口が開いていた。
「妙なところにあるんですねえ」
私は、少しばかり自分の好奇心を後悔しはじめて来たが、老人は一向に平気で
「なアに君、これは震災の時に出来た断層なんじゃよ、そこを一寸手入れしただけでネ……なかなか便利じゃ、第一他人に見られる心配はなし、実験用の電気はロハときとるからの」
「ロハ――?」
「ふッふッふ」
鷲尾老人は、その銀髪の顔に含み笑いを見せて、傍らを指さした。見ると地中に埋められてある筈の地下ケーブルが一部分露出していてそこから電線がこの所謂研究室に引込まれているのであった。
私は恐る恐るその研究室を覗いて見た。しかし、残念なことには、そこにも木美子の姿はなかった。そして名も知らない電気機械の類がその六畳ばかりの狭っくるしい部屋一杯に置かれてあるきりであった。ただ、その部屋の周囲には薄緑色のカーテンが張りめぐらされてあることだけが、どうやら彼女の趣向らしく思われる。もしこのカーテンがなかったならば、この研究室は、まるで土窖《あなぐら》と同様な、陰惨なものであったろう。
「さあさあ……」
鷲尾老人は、なかなかの上機嫌らしく、そこに散らばっている変圧器《トランス》や真空管《ヴァキューム》などを片づけると、僅かな席をつくってくれた。
白金神経の女
「へーえ」
しばらく、この奇妙な地下の研究室を見廻していた私は
「一体、何を研究されているんですか……」
「電気じゃよ、しかもわし[#「わし」に傍点]のは機械を相手とする電気ではなくて人間を対象とする、つまり恋愛電気学を完成しようと思っての」
「ですけど……、どうも人間と電気とを一緒にするのがハッキリ飲込めないんですが……」
「まあ、最初は無理ないさ。しかし君、以心伝心という現象を知っとるかね、つまりこちらの思うことが、言葉を使わずに、直接先方に伝えられる――この現象をなんといって説明するかね、一寸六ヶ敷いじゃろう。……これは電気学的に説明が出来るんじゃ、感応作用、相互誘導作用、じゃよ――、つまり考える、ということによって脳に一種の電流が生じる、これに感応して相手の脳髄に電流が誘起されるのが以心伝心という現象なんじゃ。しかしこれも感度のいい頭の奴と悪い奴があることは機械と同様、又同じ者でも空中状態によって相当なる差も出来るもんじゃがね」
「すると、ものを考えるというと脳に電流が起るんですか」
「そうじゃ、その電流が神経という導線を伝わって手や足に刺戟を与える、すると運動を起す、ということになるんじゃよ」
「しかし……」
「ウソだ、というのかね。よろしい、それならば君に、君の知っている実例を示して話そう――あの木美子を知っとるじゃろう」
「一寸、見たきりで」
「それでいい、木美子は元々左きき[#「きき」に傍点]ではなかった。それが、こんなことになったのはこういう事情があるんじゃ。木美子はわし[#「わし」に傍点]の娘ではない、震災で両親を失った孤児じゃ、しかもその時たった二つか三つだった木美子は、可哀そうに潰れた家の下敷になって柔かい両腕を折られてしまったのじゃよ」
「じゃ、あの、義手で……」
「違う! 黙っとれ!――しかし幸いなことに命だけは助かって、わし[#「わし」に傍点]が救い出し、丁度救護に当っていた外科の名手、畔柳《くろやなぎ》博士に診てもらったが、残念なことには両腕とも運動神経がすっかり切れてしまっとる。これも一寸や二寸なら引っ張って継がせられようが、どういう非道い眼にあったもんか、滅茶滅茶に切れてしまっとるのじゃ、なんとかならんか――と思った時に、ふと考えついたのが、わし[#「わし」に傍点]の研究をしておる電気学で、電線で神経の代用が出来ぬものか、と思いあたったのじゃ、そして電気をよく通すもの、しかし銅では体内で酸化したり腐食する惧《おそ》れがあるというので、白金《プラチナ》を髪の毛のように細かく打伸ばしてな、これを使って見た、ところがどうじゃ大成功なのじゃ、神経系統にいささかの障《さわ》りもないばかりか、しかも流石は畔柳博士の執刀だけに、現在傷一つも皮膚に残っておらんからの――」
「へーえ……では、左きき[#「きき」に傍点]というのはどうしたわけなんですか、白金《プラチナ》線を入れても、それはそれで神経が自然に、又伸びてきて接《つな》がったのじゃないですか」
「ふふん、それは素人考えというもんじゃよ、瞭《あき》らかに現在も木美子の腕の運動神経は白金《プラチナ》線が代用しとる証拠があるんじゃ、というのは畔柳博士が忙しさのあまり白金《プラチナ》線を逆につけてしまったのじゃ、つまり普通の人間では脳の左半球から出る命令が体の右半分を、右半球の脳が左半身を司っていることは君も先刻承知じゃろう、それを、なんとしたことか腕の運動神経だけ右は右、左は左につけてしまったのじゃ、その結果、木美子は生れもつかぬ左きき[#「きき」に傍点]になってしまった……、そればかりか、君、普通の者が歩く時は、右足を前に出す時、左手を振り、次に左[#「左」は底本では「右」]足を出すと右手を振る、こうして平衡《バランス》をとりながら歩行するじゃろう、ところが哀れにも木美子は右足を出すと同時に右手を振り、左足と左手を同時に出してしまうのじゃ、――それであのように、ぎこち[#「ぎこち」に傍点]ない歩き方をするのじゃよ」
「…………」
私は、この奇怪な話に、ただ眼を見張ったまま頷くより仕方がなかった。彼女が、なんとなくぎこち[#「ぎこち」に傍点]ない歩き方をする、とは思っていたが、まさかこんなに奇妙な、神経を白金《プラチナ》と取りかえたり、脳髄との連絡を逆にされたりした為めであろうとは、想像もつかぬことであった。しかもこの、白金《プラチナ》の神経を持った女を、一目見た時から妖しく胸を搏《う》たれた自分自身に、私は狼狽に似た驚きを覚えたのである。
最後の審判
「はッははは、だいぶ驚いたようじゃね、無理もない、突然君にこんなことまでいってもとても飲込めんじゃろうからネ……しかしまあわし[#「わし」に傍点]の仕事がぼんやりでもわかってくれたら手伝ってくれたまえよ。わしがあんなバー・オパールなんぞを開いて、客を待っていたのも、結局君のような好青年を見つけたかったからなのじゃ、……しかし認可をとって大っぴらに開業したわけでもなし、そうすれば自然わし[#「わし」に傍点]も五月蝿《うるさ》い世の中に顔を出さんけりゃならん、そればかりか、この研究室が人に知られたひ[#「ひ」に傍点]にゃ一大事じゃからねえ、それで、あんな小さな看板をこっそり出して見たんじゃよ。だが、早速に君のような、一眼で左きき[#「きき」に傍点]を見わけるような観察力の鋭い青年を得て、わし[#「わし」に傍点]は大満足じゃ、是非木美子と共に手伝ってくれたまえ……わし[#「わし」に傍点]の研究ももう一歩のところじゃ。しかし、矢張り何やかやと入費があっての――」
私は一瞬、さては――と思った。そしてこの不気味な下水道の中の研究室に連れて来られたのは、矢張り金のことがあったのか、と思いあたった。が、鷲尾老人は又笑って
「はッははは、いや、そう変な顔をしないでくれたまえ、金がかかるといってもこの鷲尾は、絶対に人の世話になろうとは思わんよ。僅かな私財は全部研究費に注ぎ込んで、今はたった一つしか残っておらんが、しかし素晴らしい名画をもっておるからの、これだけ手離せば、わし[#「わし」に傍点]の研究の完成まで位、悠々と支えられる筈じゃ」
「なんです、その名画というのは――」
私は、どうも鷲尾老人のいうような、電気の方は苦手であったけれど、画の方ならば、少しはいいように思われた。
「ミケランジェロじゃがね」
「え?」
「ミケランジェロじゃよ――。そうじゃな、君はいきなりこの研究室で手伝って貰うより先ずこの画を売るのを心配して貰うとするかな……、ともかく一つ、まあ見てくれたまえ」
老人は、研究室を出ると、又先きに立って危っかしい階段を上りバー・オパールへ戻って来た。
オパールに来ると、木美子が独りぽつんと何か考えごとをしていたらしかったが、老人の姿を見ると、びっくりしたように掛けていた椅子から立った。
「おお、木美子、あのミケランジェロを持って来ておくれ」
「はい……」
呟くようにいった彼女は、急ぎ足で奥に行ったが、その時、慌てていたせいか不思議なことには手足を普通に振っていた。が、次に画をもって帰って来た時は、先程のような、右手右足の妙な歩き方になっていたのである。
「さあ、これじゃよ」
鷲尾老人は、そんなことには気づかぬらしく、古ぼけた画を私の前に拡げた。それは額縁入りの五十号位の画であった。
私は、ミケランジェロの画といえば、肉体の群団による壮大なリズムの創生と、そのためには細かい所や色などを最小限に制限したもので、同時代のラファエロの優雅さとは正反対のものである――という程度の知識しかなく、勿論今日まで実物など見たことはなかったのだけれど、さて、鷲尾老人が、この森閑として仄暗いバー・オパールの壁にたてかけて見せたその画は、なるほどミケランジェロのものかも知れぬ、と思われるような、寧ろ何処かで見たようを肉体群像のものであった。
「なるほど、ミケランジェロか。――しかしどこかでこんな構図のものを……」
「写真か何かで見た、っていうんじゃろう。その筈じゃよ、これはあの有名なシスティーン礼拝堂の大壁画『最後の審判』と同じなんじゃ。同じというより、これはその下絵か、又は特に頼まれての縮図じゃろうかね――いや、年代からいって、壁画を描いたあとで頼まれたものらしいナ」
「ほう、よくそんな細かい年代がわかりますね」
「わかるともさ――」
鷲尾老人は、いかにも得意満面といった様子で
「なにしろ、ちゃんと日附がついとるからの、この日附がついとるからこそわし[#「わし」に傍点]が大切にしとったのじゃよ、わし[#「わし」に傍点]はすべて数字ほど信頼出来るものはない、と信じておる。一たす一は二。これは大人でも子供でも同じことじゃ、ここらが数字のありがた味《み》、とでもいうかナ、はッははは、こんなことからもわし[#「わし」に傍点]には数学的な電気が性に合うらしいのじゃ。それで最も非数学的なもの、つまり恋愛というものを、じゃね、電気学的に闡明《せんめい》しようというのが、わし[#「わし」に傍点]の念願じゃ……、そのためには、この画も手離さなけりゃならん……」
老人は、そういいながら、その画を裏がえして、埃っぽいカンヴァスを指さしながら、
「どうじゃ、ちゃんと書いてあるじゃろう……、一五八二年一月十日とな」
成
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