程、そこには薄い字ではあったが確かに 1582. 1. 10 と書かれてあった。

     一五八二年の一月

「で、どの位に売りたいのですか」
「そうじゃね、そう大してもいらんが研究費として十万位でどうかの」
「十万――?」
 本物とすれば、それは不当な値段ではないかも知れない。しかし、私にはこの薄暗い部屋の中でありながら、見ればみるほど、次第にこの画が甘くなって来るように思えた。
「一五八二年――とすると……」
 私は、手帳を出して繰《く》って見たが、やがてアッと思うことを発見した。
「鷲尾さん、折角ですが、この画はとてもそんなには売れませんよ」
「そんなには売れん――? どの位じゃ?」
「とても、その千分の一も六ヶ敷いでしょう……」
「バカッ!」
 鷲尾老人は、眼の色をかえた。
「な、なんという……ばかナ……、これが、に、偽物とでもいうのか」
「……残念ながら……、そうです」
「だ、だからいっとるのが解らんのか、ちゃんと日附まで這入っとるのが……」
「だから、その日附があればこそ、偽物だというのですよ」
 老人は、胸のあたりに握りしめた拳を、わなわなと震わせていた。
「ここに、こんなことが出ていますよ」
 私は、怒りに震えている老人から眼をそらして、手帳の中の一部を読みはじめた。
「だいたい一年間というのは、正確には三六五日と二四二一九八七九です、この端数のために四年目毎に一日の閏《うるう》を入れたんですが、それでは実際には四百年間に三日だけ閏年を入れ過ぎることになるんです。これがユリウス暦の欠点なのですが、これを使っていたため似[#「ため似」はママ]一五八二年の春分には十日間の食違いが出来てしまった。それで驚いた当時のローマ法皇グレゴリオ十三世が法令を出して、一五八二年の一月四日の次の日を一月十五日と定め、爾後現行のグレゴリオ暦を用いることになった――とありますよ。つまり、この画にかかれてある一五八二年一月十日という日附は、この世界になかった筈なんです。それが麗々しく書かれてあるところを見ると、これは当時の人間ではない、こんな一月四日の翌日が一月十五日だ、などという十日間も空白《ブランク》であったことを知らん後世の者の偽作だということが……」
 ここまでいった時、いきなり激しい物音と、それにつづいて起った木美子の『アッ!』という叫び声に私の言葉は打消された。
 あんなにも信頼していた数字、日附に、無慙《むざん》にも裏切られた鷲尾老人が、遂に卒倒してしまったのだ。
 私も最早日附どころではなかった。木美子と一緒に水をのませたり、医者を迎えに走ったり、すっかり慌てふためいてしまったのである。
     ×          ×
 鷲尾老人は、現在東京の西部にあるA精神病院に収容されている。
「つい一ト月ばかり前までは、ほんとにいい叔父様だったのに……」
 木美子が、淋しげに私に囁くのである。
「叔父様は、あのビルの管理人を、もうずいぶん長いことしていたのです。それがつい一ト月ほど前に、下水道のなかの地割れの地下線が出ているのを見つけて、危いから片づけようとして触ったもんですから感電して刎《は》ね飛ばされ、大変な騒ぎをして――、その時頭の打どころが悪かったせいか、それ以来すっかり電気気違いになってしまったの、そして木美子の神経は白金《プラチナ》で出来ているとか、(震災で両親を亡くしてから、ずうっとあの叔父様のお世話になっていたのは本当なんですけど)だからこれからは右手と右足とを一緒に出すようにして歩け、とか、こんどはこの部屋をバーにして助手を集めてやるんじゃ、とか、とても変なことをいい出して来たのよ。木美子、一人でとても心配してたんですけど、そして、なんとかして癒《なお》してあげたいと無理いうの我慢してたんですけど……、それにあんなところを研究室だなんていって電気を引込んだりして又危いことしやしないか、今度そんなことしたら、今まで木美子が叔父様の代りに働いて、どうにか居られたこのビルからも断られやしないか……なんて、とても心配だったの。そうかといってお世話になった叔父様が、頭が変になったからって私一人が勝手なことをするのも嫌だったし……、でも、でもお陰様で病院に入れて頂いて、ほんとに安心しましたわ。頭の具合の悪くなった叔父様に、電気をいじらせて置いたのは、却て不可《いけ》ないことでしたわね、なぜもっと早く病院のこと考えつかなかったかしら……」
 彼女は、やっと安心したように、美しい微笑をもらした、私も、思わず微笑みかえして、
「あの画はどうしました……」
「あれはつい二三ヶ月前に夜店で買ったものなのよ。それが、頭が狂ってから、急に自分で日附など入れたりして珍重がっていられたの……、でも河井さん、あんな六ヶ敷しいこと言われた
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング