えたのである。

     最後の審判

「はッははは、だいぶ驚いたようじゃね、無理もない、突然君にこんなことまでいってもとても飲込めんじゃろうからネ……しかしまあわし[#「わし」に傍点]の仕事がぼんやりでもわかってくれたら手伝ってくれたまえよ。わしがあんなバー・オパールなんぞを開いて、客を待っていたのも、結局君のような好青年を見つけたかったからなのじゃ、……しかし認可をとって大っぴらに開業したわけでもなし、そうすれば自然わし[#「わし」に傍点]も五月蝿《うるさ》い世の中に顔を出さんけりゃならん、そればかりか、この研究室が人に知られたひ[#「ひ」に傍点]にゃ一大事じゃからねえ、それで、あんな小さな看板をこっそり出して見たんじゃよ。だが、早速に君のような、一眼で左きき[#「きき」に傍点]を見わけるような観察力の鋭い青年を得て、わし[#「わし」に傍点]は大満足じゃ、是非木美子と共に手伝ってくれたまえ……わし[#「わし」に傍点]の研究ももう一歩のところじゃ。しかし、矢張り何やかやと入費があっての――」
 私は一瞬、さては――と思った。そしてこの不気味な下水道の中の研究室に連れて来られたのは、矢張り金のことがあったのか、と思いあたった。が、鷲尾老人は又笑って
「はッははは、いや、そう変な顔をしないでくれたまえ、金がかかるといってもこの鷲尾は、絶対に人の世話になろうとは思わんよ。僅かな私財は全部研究費に注ぎ込んで、今はたった一つしか残っておらんが、しかし素晴らしい名画をもっておるからの、これだけ手離せば、わし[#「わし」に傍点]の研究の完成まで位、悠々と支えられる筈じゃ」
「なんです、その名画というのは――」
 私は、どうも鷲尾老人のいうような、電気の方は苦手であったけれど、画の方ならば、少しはいいように思われた。
「ミケランジェロじゃがね」
「え?」
「ミケランジェロじゃよ――。そうじゃな、君はいきなりこの研究室で手伝って貰うより先ずこの画を売るのを心配して貰うとするかな……、ともかく一つ、まあ見てくれたまえ」
 老人は、研究室を出ると、又先きに立って危っかしい階段を上りバー・オパールへ戻って来た。
 オパールに来ると、木美子が独りぽつんと何か考えごとをしていたらしかったが、老人の姿を見ると、びっくりしたように掛けていた椅子から立った。
「おお、木美子、あのミケランジェロを持って来ておくれ」
「はい……」
 呟くようにいった彼女は、急ぎ足で奥に行ったが、その時、慌てていたせいか不思議なことには手足を普通に振っていた。が、次に画をもって帰って来た時は、先程のような、右手右足の妙な歩き方になっていたのである。
「さあ、これじゃよ」
 鷲尾老人は、そんなことには気づかぬらしく、古ぼけた画を私の前に拡げた。それは額縁入りの五十号位の画であった。
 私は、ミケランジェロの画といえば、肉体の群団による壮大なリズムの創生と、そのためには細かい所や色などを最小限に制限したもので、同時代のラファエロの優雅さとは正反対のものである――という程度の知識しかなく、勿論今日まで実物など見たことはなかったのだけれど、さて、鷲尾老人が、この森閑として仄暗いバー・オパールの壁にたてかけて見せたその画は、なるほどミケランジェロのものかも知れぬ、と思われるような、寧ろ何処かで見たようを肉体群像のものであった。
「なるほど、ミケランジェロか。――しかしどこかでこんな構図のものを……」
「写真か何かで見た、っていうんじゃろう。その筈じゃよ、これはあの有名なシスティーン礼拝堂の大壁画『最後の審判』と同じなんじゃ。同じというより、これはその下絵か、又は特に頼まれての縮図じゃろうかね――いや、年代からいって、壁画を描いたあとで頼まれたものらしいナ」
「ほう、よくそんな細かい年代がわかりますね」
「わかるともさ――」
 鷲尾老人は、いかにも得意満面といった様子で
「なにしろ、ちゃんと日附がついとるからの、この日附がついとるからこそわし[#「わし」に傍点]が大切にしとったのじゃよ、わし[#「わし」に傍点]はすべて数字ほど信頼出来るものはない、と信じておる。一たす一は二。これは大人でも子供でも同じことじゃ、ここらが数字のありがた味《み》、とでもいうかナ、はッははは、こんなことからもわし[#「わし」に傍点]には数学的な電気が性に合うらしいのじゃ。それで最も非数学的なもの、つまり恋愛というものを、じゃね、電気学的に闡明《せんめい》しようというのが、わし[#「わし」に傍点]の念願じゃ……、そのためには、この画も手離さなけりゃならん……」
 老人は、そういいながら、その画を裏がえして、埃っぽいカンヴァスを指さしながら、
「どうじゃ、ちゃんと書いてあるじゃろう……、一五八二年一月十日とな」
 成
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング