鉄路
蘭郁二郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)澱《よど》んだ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|輛《りょう》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)せり[#「せり」に傍点]出すように
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      一

 下り一〇五列車は、黒く澱《よど》んだ夜の空気を引裂き、眠った風景を地軸から揺り動かして、驀進《ばくしん》して行った。
『いやな晩じゃねェか……』
(変ったことでも起らなければいいが)
 というのを口の中で噛潰《かみつぶ》した、機関手の源吉《げんきち》は、誰にいうともなく、あたりを見廻した。
『うん……』
 助手の久吉《きゅうきち》も、懶気《ものうげ》に、さっきから、ひくひくと動く気圧計の、油じみた硝子管《がらすかん》を見詰めながら、咽喉《のど》を鳴らした。
 夜汽車は、単調な響《ひびき》に乗って、滑っている。
 源吉は、もう今の呟《つぶや》きを忘れたように、右手でブレーキバルブを握ったまま、半身を乗出すように虚黒《ここく》な前方を、注視していた。
 時々、ヘッドライトに照された羽虫《はむし》の群が、窓外《そうがい》に金粉《きんぷん》のように散るほか、何んの変った様子もなかった。
 列車は、せり[#「せり」に傍点]出すように前進して行った。これは、下り坂にかかった証拠だ。
 源吉は、少しずつブレーキを廻すと、眼を二三度ぱちぱちさせ、改めて、前方に注意を払った。
 行く手には、岬のように出張《でば》った山の鼻が、真黒い衝立《ついたて》となって立ち閉《ふさ》がり、その仰向いて望む凸凹な山の脊には、たった一つ、褪朱色《たいしゅいろ》の火星が、チカチカと引ッ掛っていた。
 レールは、ここで、この邪魔者のために鋭い弧を描いて、カーヴしていた。
(下り坂と急カーヴ)
 源吉の右手はカマの焔照《ほて》りで熱っぽいブレーキを、忙しく廻し始めた。
 今まで、速射砲のように、躰に響いていた、レール接目《つぎめ》の遊隙《ゆうげき》の音も、次第に間伸《まの》びがして来た。
 と同時に、躰は、激しく横に引っ張られるのを感じた。
 源吉は、尚も少しずつ、スピードを落しながら、ヘッドライトのひらひらと落ちるレールを睨《にら》んだ。蒼白《あおじろ》い七十五ポンドレールの脊は弓のように曲っていた。山の出鼻《でばな》を、廻り切って仕舞うまで前方は、見透《みとお》しが、利かなかった。
 何処《どこ》かで、ボデーが、ギーッと軋《きし》んだ。
『アッ! 畜生ッ!』
(仕舞った!)という感じと、鋭い怒声と、力一杯ブレーキを掛たのは、源吉が、行く手の闇の中に黒く蠢《うごめ》くものを、見つけたのと、同時だった。
 だが、十|輛《りょう》の客車を牽引して、相当のスピードを持った、その上、下り坂にある列車は、そう、ぴたん[#「ぴたん」に傍点]と止まるわけはなかった。
 ゴクン、と不味《まず》い唾《つば》を飲んだ瞬間、その黒いものが、源吉の足の下あたりに触れ、妙に湿り気を含んだ、何んともいえない異様な音……その中には、小楊枝《こようじ》を折るような、気味の悪い音も確《たしか》にあった。
(轢《ひ》いた。到頭《とうとう》、轢いちまった――)
 源吉は、胃の中のものが、咽喉元《のどもと》にこみ[#「こみ」に傍点]上って、クラクラッと眩暈《めまい》を感ずると、周囲《あたり》が、急に黒いもやもやしたものに閉《とざ》され、後頭部に、いきなり、叩《たた》き前倒《のめ》されたような、激痛を受けた。
 汽車は、物凄《ものすご》い軋《きし》みと一緒に、尚も四五|間《けん》滑《すべ》って、ガリンと止まった。源吉は、まだ眼をつぶって、一生懸命、ブレーキにしがみついていたが、しんと、取残されたような山の中で、汽車が止まって仕舞ったと同時に、入れ換って訪れて来たシインとした静寂は、却《かえ》って、洞穴《ほらあな》のような、底の知れない、虚無の恐ろしさだった。
『ヘッヘッヘッ……』
 源吉は、何故《なぜ》か、力のない嗤《わら》い声《ごえ》を立てて、自分でグキンとした。
 ゾッと冷汗《ひやあせ》が発生《わい》て、シャツがぴったり脊骨にくっついた。
(気が違ったんか――)
 激しく頭を振って、源吉は、漸《ようや》く吾《われ》に復《かえ》った。
 見ると、年若い助手の久吉も、矢張《やは》り気が顛倒《てんとう》したものか、歪《ゆが》んだ顔に、血走った眼を光らせながら、夢中になって、カマに石炭を抛込《なげこ》んでいる。カマの蓋《ふた》を開ける度に、パッと焔《ほのお》の映りが、血の塊りのように、久吉の顔に飛ついた。
『バ、莫迦《ばか》……止まってるんだぞ……』
 源吉は、周章《あわて》て、久吉の肩を撲《なぐ》って、その手を押止《おしとど》めてやった。
 ――少し長く勤めた機関手なら、こんなにまで、のぼせ[#「のぼせ」に傍点]上る筈はないが、源吉は、まだ勤めは浅い上に、「人を轢《ひ》いた」という大事件は生れて始めての出来事なのだ。まして助手の久吉に到っては今日で、二回目の乗組だった――。
 源吉は、思い切ったように、手すりに凭《もた》れて、下に飛下りた。道床《どうしょう》の砂利が、ざらざらと崩れ、危うく転びそうになって枕木にべたりと触《さ》わると、ひやっ[#「ひやっ」に傍点]とした冷たいものを感じた。
(血!)
 然《しか》し、幸い、それは枕木に下りていた夜露だった。

      二

 思えば、この事件が、源吉を、恐ろしい轢殺鬼《れきさつき》(?)に誘導する第一歩だったのだ。といっても、勿論《もちろん》、口に出していえることではなかった。が、話せなければ話せないだけ、又激しい、根強い魅力があったのだ。
 それには、も一つ、それを助けることがあった、というのは、如何《いか》に源吉が、悪魔的な男であったにしても、あの一回だけであったならば、彼の記憶の中《うち》に、
『機関手時代の、最も忌まわしい思い出』
 と、しか残らなかったろう。
 だが――。
 源吉の、最初の轢殺問題が片付いて、彼が、詰所《つめしょ》に顔を出した時だった。
『やア、源さん。えらいことをやったね』
 機関手仲間では、先輩の、それでいて話好きの倉さんが、まっていた、とばかり声をかけた。
『…………』
『到頭やったのか。……やっぱり』
 同じ仲間の順平が、源吉の萎《しお》れた顔を覗《のぞ》き見るようにしていった。
 源吉は、
『え、やっぱり……っというと』
(怪訝《おか》しなことをいう)と訊《き》きかえした。
『知らなかったのか、まだ。そりゃ悪かった、いや何んでもないんだ』
 順平は、如何にも具合悪そうに、口を濁した。
 然し、こうなると、いやなことのあった後だし、どこまでも聴きたくなるのは、人情だ。
『何んだい、やっぱり[#「やっぱり」に傍点]、というのは、……君たちに悪いことでなかったら教えてくれよ、俺、俺も人を一人轢いちまったんだから、気味が悪いじゃないか』
 倉さんと順平とは、顔を見合せていたが、漸《ようや》く倉さんが口を切った。
『源さん、源さんの轢いたってのは、あの岩《いわ》ヶ|根《ね》――Y駅とT駅の間の――カーヴだろう』
 源吉は、胸の中を、見透かされたような、気味悪さを覚えて、ガクッと頷《うなず》いた。
『あそこは、ひどいカーヴだ、おまけに山の出ッ鼻が、邪魔してるんで、まるで見通しが利かねェ、なんでも始めはトンネルを掘って真ッ直ぐにするつもりだったってェが、山が砂岩ばかりで仕方なしにあんなことになったそうだがね、魔のカーヴだ』
『魔のカーヴ――』
 源吉は、頭の中で、もやもやしていた恐怖の雲が、スーッと塊《かた》まりになったのを意識した。『やっぱり』という意味が、飲み込めた。
『魔のカーヴだ。よくある魔の踏切と同じ奴よ。若い娘がよく死ぬんだ。娘ばかりじゃねェ、失恋《ふら》れた若い男、借金《かり》で首の廻らねェ、百姓|爺《おやじ》の首が、ゴロンと転がったり……。
 おか[#「おか」に傍点]しなもんで、一人が死ぬと『吾《わ》れも、吾れも』とそこで死にたがるもんでな、轢くこっちはいい迷惑よ、嫌な思いをしなけりゃならねェし。
 おまけ[#「おまけ」に傍点]に坂で滑っているから、『あッ!』と思ったって間に合わねェ、知らねェで運転して車庫の検査で、めっけたって奴もあるぜ源さんの来る前にいたもん[#「もん」に傍点]だがね、見ると輪のところへ、ひらひらしたもんがくっ[#「くっ」に傍点]附いている、さわ[#「さわ」に傍点]ったが落ちねえ、ぐっと引っ張ったら、べたっ[#「べたっ」に傍点]と手についたんだ『わッ!』という騒ぎよ、何んだと思う、女の頭の皮さ、黒い長い髪が縺《もつ》れてひらひらしてたんだぜ、それが手に吸いついて、髪が指にからまっちまったもんだから、奴《やっこ》さん驚いたの、驚かねェの、青くなって、それっきり罷《よ》しちまった。その後釜《あとがま》が、源さんという訳よ』
 倉さんは、如何にも話好きらしく、長々と話し出したが、源吉には、もうそれ以上聴く元気はなかった。
(俺《おれ》も機関手なんて罷《や》めようか――)
 詰所を出ると、前の草原《くさはら》に、ごろんと寝た儘《まま》、喘《あえ》ぐように、考え続けた。
(罷めなければ、二日に一遍は、あそ[#「あそ」に傍点]こを通らなければならない――)
 ここで源吉が、潔よく罷めて仕舞えば、あの恐ろしい、轢殺の魅力なんかに、囚《とら》われずに済んだのだろうが、彼の不幸な運命《ほし》はそうはさせなかった。
 ――彼は何時《いつ》の間《ま》にか、失業の苦しみが、芯の髄《ずい》まで沁みていた……というよりも、職に離れると同時に、あの、獲《え》たばかりの美しき野獣――京子に、別れなければならぬ。と考えれば、辞職するなんて、滅相《めっそう》もないことだ。
(京子――そうだ、これから行って見よう)
 源吉は、大事な忘れ物でもしたように、ピョコンと飛起きると、頭の中を、全部京子に与え乍《なが》ら足早に歩き出した。

      三

 京子は、カフェー松喜亭《しょうきてい》の女給だった。「鄙《ひな》には稀《まれ》」とは京子のことではないか、こんなところに燻《くすぶ》っているのは、何か暗い影がありはしないか――と余計な心配を起させる程、優れた美貌の持主だった。
 源吉等の詰所でも、一日として話題の中に、京子が登場しない日はなかったろう。
 源吉としては、その皆んなにちやほや[#「ちやほや」に傍点]される女王のような京子が自分に好意を持ってくれる、と知った時は、圧倒されるような喜びに、却ってそわそわと狼狽《ろうばい》したほどだった。
 これは源吉の自惚《うぬぼ》れでもなんでもなかった。京子は、明かに彼に好意を持っていたのだ。それは源吉の持出した「堅い約束」に、唯々諾々《いいだくだく》と応じたのだから――。
 源吉は、常連らしく、何気《なにげ》なさそうな顔をして、松喜亭のドアーを潜《くぐ》ると、昼でも薄暗いボックスの中に、京子のピチピチとくねる四肢を捕えた。
 京子は、ボイルのような、羅衣《うすもの》を着ていた。然《しか》し、その簡単な衣裳は、却って彼女の美に新鮮を与え青色の模様の下に、躍動する雪肌は、深海の海盤車《ひとで》のように、柔《やわら》かであった。
 源吉は、しっとり[#「しっとり」に傍点]とした重みを胸に受け、彼女の血に溢《あふ》れた紅唇《くち》に、吸い寄せられた時、彼の脳の襞《ひだ》の何処《どこ》を捜しても「轢殺の苦」なぞは、まるでなかった。
(罷めようか――)
 と考えた自分は、とんでもない、莫迦野郎《ばかやろう》だ、と思った。
 又、尤《もっと》もらしい顔をして、京子の美を讃嘆する、倉さんや、順平や、その他多くの間抜けた顔が眼に浮ぶ度に、京子を固く抱《いだ》いた腕は、彼女のふくふくした躰が、くびれはしまいかと思われるほど、力を加えられて行った。
 源吉は、限りなく幸福であった。
 だが、この快楽《けらく》
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