を得《う》るには、あの血みどろのレールの上に、呪われたカーヴの上に鋼鉄の列車を操つらなければならなかった。殆《ほと》んど、必然的に――倉さん等、先輩の言葉を信ずれば――心にもなき殺人を行わなければならなかったのだ……。
 そして、それは事実だった。最初の轢殺事件から、二週間もたった夜《よ》、源吉は、又轢死人を出した。今度は、若い頑丈な男だったが、この前と同様、ドシンとも、ビタビタともつかぬ、雑巾を踏みにじったような、異様な、胸の中のものを、掴《つか》み出す音と、一緒に、男の躰はずたずたに轢き千切《ちぎ》られて仕舞ったのだ。
 今度は、周章《あわて》ずに、直《す》ぐ下りて見たが、何んともいいようのない凄惨《せいさん》な場面だった。
 その中でも、どうしたものか、車輛《しゃりん》の放射状になった軸の一つにその男の掌《て》だけが、ぶら下っていた。源吉は、覗《のぞ》き込むように見て、思わず「わッ!」と叫ぶと、よろよろっと蹌踉《よろめ》いて仕舞った。蒼黒《あおぐろ》い掌だけの指が、シッカリと軸を掴んでいるのだ、手首のところからすっぽりともげ[#「もげ」に傍点]て、掌だけが、手袋のような恰好で……、手首の切れ目から、白い骨と腱《けん》がむき出され、まだ、ぽんぽんと血が滴《した》たっているようだ。
 あたりの凄寥《せいりょう》とした夜気が、血腥《ちなまぐ》さくドロドロと澱《よど》んだ。

      四

 源吉は、それ等の悪夢を、京子の激しい愛撫で慰められた。
 然し、連続的に襲って来る悪夢は、京子の激しい愛撫を俟《ま》つまでもなく、独りでに、彼の頭の中で麻痺して来た。
 恐ろしいことだ。源吉は、この惨澹《さんたん》たる轢殺の戦慄に、不感症となって来たのだ。
 彼は、人を轢き殺した瞬間にさえ、何処《どこ》か、事務的な、安易な気持を持ち始めたのだ。
 源吉は、最初の(気が狂って仕舞ったのか)とも思えた、興奮の自分が、莫迦莫迦《ばかばか》しく、ウソのように感じられた。
(どうせ、魔のカーヴだ。死にたい奴は死ね、俺は、介錯《かいしゃく》してやるようなもんだ)
 棄て鉢の呟《つぶや》きだった。だが、これは今の彼の本心だったろう。
(柵《さく》なんか造ったって駄目さ、死のうという奴は盲目だ、俺の所為《せい》じゃねェや)
 そうした、自己偽瞞《じこぎまん》の囁《ささや》きもあった。
 又、それに拍車を加えるように、一ヶ月に一遍、多い時は二遍位までの、死を急ぐ者が、不思議に絶えなかった。
(これじゃ、俺の前にいた奴も、勤まらねェ訳だ)
 源吉も、独りで苦笑いを漏らすことがあった。然し、それは、苦笑いというには、余りに恐ろしいことではなかったか……。
 如何《いか》にもその、軽い苦笑は、源吉の轢殺鬼という資格の表徴であった。
 源吉は、近頃、列車を運転しながらも、ひょい[#「ひょい」に傍点]と気が抜けたような、気持に襲われるのだ。
(どうしたんかな、仕事に馴《な》れちまったからかしら……)
『あッ、そうだ……』
 思わず、口走って、ギクリとあたりを見廻した。
 源吉も、その原因を見極めた時は、フイと眼の前の、暗い影が、頭の中を撫で廻したような、イヤな気持を覚えた。
 その空虚な気持は轢死人のない時の、物足らなさだったのだ。
 然し、それも亦《また》『時間』が拭《ぬぐ》い去って仕舞った。
 源吉は、人を轢き殺して、何とも思わぬばかりか、却て、轢くことを、希《ねが》っていたのだ。
 いや、そればかりか、彼は、多くの人を轢いた経験で、車輪が、四肢を寸断する瞬間に、その音やショックの具合で、男であるか、女であるか、或は、年寄りか、若者か、又或は肥った者か、痩《やせ》た者かをハッキリといい当《あて》るときが出来るほど、異状に磨《と》ぎすまされた感覚の、所有者となっていた。
 彼は、列車に乗組む時、何時も『人でなしの希望』に、胸を膨らませていたのだ。
 そして、列車が、あの魔のカーヴに近づくにつれ、そのワクワクするような楽《たのし》さは、いやが上にも拡大されて行った。
 だが、音もなくカーヴを廻りきり、冷々《ひえびえ》とした夜風の中に、遠く闇の中に瞬く、次の駅の青い遠方信号が、見えて来ると源吉は
(ちぇッ)と舌打ちしたいような、激しい苛立《いらだ》たしさにみたされた。
(莫迦《ばか》にしてやがる……)
 ――そこには、一匹の、轢殺鬼しかいなかった。
 こうした、轢死人のない日の彼は、待ち呆けを食わされたような溜らない憂鬱だった。そうしてその憂鬱を、京子との糜爛《びらん》した情痴で、忘れようとした。
 源吉の性格は、ガラリと変って仕舞った。最初は、あの真綿で頸《くび》を締められるような、血みどろな悪夢から、遁《のが》れようと求めた京子だったのが、今は、その悪夢なき日の遣《や》る瀬《せ》なさに、舐《な》めるように愛撫するのだった。
 然し、何故か近頃、京子は源吉に、冷たいそぶり[#「そぶり」に傍点]を見せて来た。
 勿論《もちろん》、この轢殺鬼と、女王のような、美貌の京子とが、無事に納まろうとは思えない。京子は源吉の列車が、余りに人を轢く、ということに、女らしく、ある不安を持って来たのだろうか。そして、そのポツンと浮いた心の隙《すき》に、第二の情人が、喰い込んだのではないか。
(京子の奴、なんだか変だな……)
 源吉も、時々そんな気持に襲われた。と一緒に、火のような憤激が、脈管の中を、ワナワナと顫《ふる》わして、逆流した。

      五

 それは、源吉の危惧ではなかった。京子は、次第に露骨に、忌《いま》わしいそぶり[#「そぶり」に傍点]を見せ、弦《つる》を離れた矢のように、源吉の胸から、飛び出して行った。
 源吉は、絶望のドン底に、果てもなく墜落して行った。と同時に彼の執拗な復讐感は、何時の間にか、野火のように、限りなき憎悪の風に送られて、炎々《えんえん》と燃え拡がって行ったのだ。
 そうした無気味な、静寂は、何気なく京子のところに訪れた、深沢《ふかざわ》の姿で、破られた。
 源吉は、限りなき憎悪をいだ[#「いだ」に傍点]きながらも、京子を思い切ることが出来なかった。泥沼のような憂鬱を感じつつも、松喜亭の重いドアーを押さぬ日はなかった。
 その日も、薄暗いボックスのクッションに、京子と向い合っては見たが、間《あいだ》の小さい卓子《テーブル》一つが百|尋《ひろ》もある溝のように思われ、京子は冷たい機械としか感じなかった。そして、その気不味《きまず》い雰囲気に、拍車を加えるのは、京子のドアーが開くたびに、ちらり[#「ちらり」に傍点]と送る素早い視線だった。
(矢張り、深沢という奴を待っているんだな)
 源吉はむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]した心に、アルコオルを、どんどんぶっ[#「ぶっ」に傍点]かけた。
 ギーッとドアーの開いた気配を感じたのは、京子が、(まァ……)と席をはず[#「はず」に傍点]したのと同時だった。
 それっきり、京子は、彼の傍《かたわら》へ来なかった。
(深沢のやつ[#「やつ」に傍点]が来たんか?)
 源吉は、耳を澄ますと、陰のボックスから、男の笑い声にもつれ[#「もつれ」に傍点]て、京子の「くッくッくッ」という嬉しそうな笑い声が、故意《わざ》とでないか、と思われるほど、誇張されて、響いて来た。彼は、クラクラする眩暈《めまい》を振切って立上るとそのボックスを、グッと睨《にら》んでつき飛ばされるように、松喜亭を出た。
(京子|奴《め》!、畜生ッ)
 そんなことを呻《うめ》きながら、迂路《うろ》つきまわっている中《うち》、源吉の頭の中には、何時の間にか、恐ろしい計画が、着々と組立られていた。
 京子を轢《ひき》殺してやろう、というのだ。
(岩ヶ根の魔のカーヴでやったら、又かと俺を疑うものはないだろう)
 そればかりか、この計画には、或《あるい》はその原因ともいうべき、大きな魅力があった。それは、老人を轢くより若いものの方が、柔かく轢心地がよかった、若い中《うち》でも、娘なんかは一層――と思うとあのムチムチと張切った、京子の豊満な四肢が、ドシンと車輪にぶつ[#「ぶつ」に傍点]かって、べらべら[#「べらべら」に傍点]な肉片になって仕舞う時の陶酔――。骨という骨は、あの楊枝を折るような……。源吉は、ぺろり[#「ぺろり」に傍点]と、乾いた唇を舐めた咽喉がゴクンと鳴ったのだ。
(恰度《ちょうど》、今日は夜汽車の番だ)
 源吉は、機嫌《きげん》よく、出まかせ[#「まかせ」に傍点]な唄を歌いながら、松喜亭の方へ帰り始めた。
 源吉は、それから、京子を上手く誘い出すと、散歩にいい寄せて
『俺は、今日ここを罷《や》めたんだ、明日は国元へ帰るから、もう二度と逢えそうもない、最後だから一緒にそこまで散歩してくれないか……』
 そう、沁々《しみじみ》というと、京子は、すぐ真に受けて
『あら、どうして罷めたの……。じゃ歩きながら聴くわ』
 如何《いか》にも驚いたように、いったが、源吉はその顔色に、
(やっと邪魔者がいなくなるのか)といった安堵を読みとって、ふ、ふ、ふと嗤《わら》った。
 二人は、散歩をしながら、いつか岩ヶ根の近く、雑木林まで来ていた。
 其処《そこ》で源吉は、到頭、そこで京子を殺して仕舞ったのだ。
 あとは、時を見計らって、レールに、京子の死骸を置き、自分が列車を運転して行って、ずたずた[#「ずたずた」に傍点]に轢いて仕舞えばいいのだ。
 彼は京子の力の抜けたくたくた[#「くたくた」に傍点]な躰を、レールに載せると、――その間は、躰の具合が悪い、というのを口実にして、汽車は、非番の倉さんに代ってもらっていた――すぐ岩ヶ根の隣駅、Tに駈つけ滑りこんで来た列車を捕えて、倉さんと交代した。

      六

 源吉は、熱っぽい頬を、夜風に曝《さら》しながら、一つ一つが、余りに順序よく、破綻を起さなかったのが、寧《むし》ろ、あっ[#「あっ」に傍点]気なくさえ思われた。
 だが、この轢殺鬼の計画は、最後まで、成功しただろうか――。
『あと二分……』
 源吉は、懐中時計を覗《のぞ》きながら呟《つぶや》いた。
 前方を注視すると、ヘッドライトの光が、夜霧に当って、もやもやとした雲を現わしていた。その白い雲が、動揺につれて、ふらふらと揺れ、頸《くび》を傾《かし》げると、京子の福よかな、肉体を表わしているのではないか、とも思えた。汽車はぐんぐん前進している。源吉は、鼻唄でも歌いたい気持だった。
 軈《やが》て、岩ヶ根の出《で》ッ鼻《ぱな》が、行く手を遮って、黒々と、闇に浮出して来た。その蒼黒い巨大な虫を思わせる峰には、最初の日、見たような、くすんだ[#「くすんだ」に傍点]朱の火星が、チカチカと遽《あわただ》しく、瞬《またた》いていた。
 カーヴ! 源吉は、窓から乗出して、縞を描いて流れるレールを見詰めた――。
 !轢《ひ》いた!
 その瞬間、源吉の乗出していた顔に、べたッとなま[#「なま」に傍点]暖かいものが飛ついた。血?
 源吉は、列車が止まるのも、もどかしそうに、飛下りた。
 源吉の躰は、ワナワナと顫《ふる》えていた。
(京子じゃない、京子じゃないぞ……)
 彼は冷汗を拭った。
(た、たしかに男だ。男を轢いたんだ)
 それは、轢いた時の、あの感じで、断言出来た。それに死骸である京子から、あんな、暖かい血の飛ぶ筈はない……。
 源吉は、助手から信号燈を受取ると、無遊病のように、歩き出した。
『アッ!』
 源吉はよろよろっとよろめいたが、すぐ立ちなおった。
 信号燈から円く落された光の中には恐ろしい有様《ありさま》が、展開されていた。
 ――そこには、ゴロンと二つの生首が転がり、二人分の滅茶滅茶になった血みどろな躰が、二三間先きに、芥《あくた》のように、棄《す》てられてあった。
(これは京子だが――)
 も一つの生首を確めた時、源吉は、又新らたな驚きに打前倒《うちのめ》された。
 も一つの生首、それは恋仇《こいがた》き深沢の首だったのだ。
 それどころか
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