失業の苦しみが、芯の髄《ずい》まで沁みていた……というよりも、職に離れると同時に、あの、獲《え》たばかりの美しき野獣――京子に、別れなければならぬ。と考えれば、辞職するなんて、滅相《めっそう》もないことだ。
(京子――そうだ、これから行って見よう)
 源吉は、大事な忘れ物でもしたように、ピョコンと飛起きると、頭の中を、全部京子に与え乍《なが》ら足早に歩き出した。

      三

 京子は、カフェー松喜亭《しょうきてい》の女給だった。「鄙《ひな》には稀《まれ》」とは京子のことではないか、こんなところに燻《くすぶ》っているのは、何か暗い影がありはしないか――と余計な心配を起させる程、優れた美貌の持主だった。
 源吉等の詰所でも、一日として話題の中に、京子が登場しない日はなかったろう。
 源吉としては、その皆んなにちやほや[#「ちやほや」に傍点]される女王のような京子が自分に好意を持ってくれる、と知った時は、圧倒されるような喜びに、却ってそわそわと狼狽《ろうばい》したほどだった。
 これは源吉の自惚《うぬぼ》れでもなんでもなかった。京子は、明かに彼に好意を持っていたのだ。それは源吉の持出した「堅い約束」に、唯々諾々《いいだくだく》と応じたのだから――。
 源吉は、常連らしく、何気《なにげ》なさそうな顔をして、松喜亭のドアーを潜《くぐ》ると、昼でも薄暗いボックスの中に、京子のピチピチとくねる四肢を捕えた。
 京子は、ボイルのような、羅衣《うすもの》を着ていた。然《しか》し、その簡単な衣裳は、却って彼女の美に新鮮を与え青色の模様の下に、躍動する雪肌は、深海の海盤車《ひとで》のように、柔《やわら》かであった。
 源吉は、しっとり[#「しっとり」に傍点]とした重みを胸に受け、彼女の血に溢《あふ》れた紅唇《くち》に、吸い寄せられた時、彼の脳の襞《ひだ》の何処《どこ》を捜しても「轢殺の苦」なぞは、まるでなかった。
(罷めようか――)
 と考えた自分は、とんでもない、莫迦野郎《ばかやろう》だ、と思った。
 又、尤《もっと》もらしい顔をして、京子の美を讃嘆する、倉さんや、順平や、その他多くの間抜けた顔が眼に浮ぶ度に、京子を固く抱《いだ》いた腕は、彼女のふくふくした躰が、くびれはしまいかと思われるほど、力を加えられて行った。
 源吉は、限りなく幸福であった。
 だが、この快楽《けらく》を得《う》るには、あの血みどろのレールの上に、呪われたカーヴの上に鋼鉄の列車を操つらなければならなかった。殆《ほと》んど、必然的に――倉さん等、先輩の言葉を信ずれば――心にもなき殺人を行わなければならなかったのだ……。
 そして、それは事実だった。最初の轢殺事件から、二週間もたった夜《よ》、源吉は、又轢死人を出した。今度は、若い頑丈な男だったが、この前と同様、ドシンとも、ビタビタともつかぬ、雑巾を踏みにじったような、異様な、胸の中のものを、掴《つか》み出す音と、一緒に、男の躰はずたずたに轢き千切《ちぎ》られて仕舞ったのだ。
 今度は、周章《あわて》ずに、直《す》ぐ下りて見たが、何んともいいようのない凄惨《せいさん》な場面だった。
 その中でも、どうしたものか、車輛《しゃりん》の放射状になった軸の一つにその男の掌《て》だけが、ぶら下っていた。源吉は、覗《のぞ》き込むように見て、思わず「わッ!」と叫ぶと、よろよろっと蹌踉《よろめ》いて仕舞った。蒼黒《あおぐろ》い掌だけの指が、シッカリと軸を掴んでいるのだ、手首のところからすっぽりともげ[#「もげ」に傍点]て、掌だけが、手袋のような恰好で……、手首の切れ目から、白い骨と腱《けん》がむき出され、まだ、ぽんぽんと血が滴《した》たっているようだ。
 あたりの凄寥《せいりょう》とした夜気が、血腥《ちなまぐ》さくドロドロと澱《よど》んだ。

      四

 源吉は、それ等の悪夢を、京子の激しい愛撫で慰められた。
 然し、連続的に襲って来る悪夢は、京子の激しい愛撫を俟《ま》つまでもなく、独りでに、彼の頭の中で麻痺して来た。
 恐ろしいことだ。源吉は、この惨澹《さんたん》たる轢殺の戦慄に、不感症となって来たのだ。
 彼は、人を轢き殺した瞬間にさえ、何処《どこ》か、事務的な、安易な気持を持ち始めたのだ。
 源吉は、最初の(気が狂って仕舞ったのか)とも思えた、興奮の自分が、莫迦莫迦《ばかばか》しく、ウソのように感じられた。
(どうせ、魔のカーヴだ。死にたい奴は死ね、俺は、介錯《かいしゃく》してやるようなもんだ)
 棄て鉢の呟《つぶや》きだった。だが、これは今の彼の本心だったろう。
(柵《さく》なんか造ったって駄目さ、死のうという奴は盲目だ、俺の所為《せい》じゃねェや)
 そうした、自己偽瞞《じこぎまん》の囁《ささや》きもあった。
 又、
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