とど》めてやった。
 ――少し長く勤めた機関手なら、こんなにまで、のぼせ[#「のぼせ」に傍点]上る筈はないが、源吉は、まだ勤めは浅い上に、「人を轢《ひ》いた」という大事件は生れて始めての出来事なのだ。まして助手の久吉に到っては今日で、二回目の乗組だった――。
 源吉は、思い切ったように、手すりに凭《もた》れて、下に飛下りた。道床《どうしょう》の砂利が、ざらざらと崩れ、危うく転びそうになって枕木にべたりと触《さ》わると、ひやっ[#「ひやっ」に傍点]とした冷たいものを感じた。
(血!)
 然《しか》し、幸い、それは枕木に下りていた夜露だった。

      二

 思えば、この事件が、源吉を、恐ろしい轢殺鬼《れきさつき》(?)に誘導する第一歩だったのだ。といっても、勿論《もちろん》、口に出していえることではなかった。が、話せなければ話せないだけ、又激しい、根強い魅力があったのだ。
 それには、も一つ、それを助けることがあった、というのは、如何《いか》に源吉が、悪魔的な男であったにしても、あの一回だけであったならば、彼の記憶の中《うち》に、
『機関手時代の、最も忌まわしい思い出』
 と、しか残らなかったろう。
 だが――。
 源吉の、最初の轢殺問題が片付いて、彼が、詰所《つめしょ》に顔を出した時だった。
『やア、源さん。えらいことをやったね』
 機関手仲間では、先輩の、それでいて話好きの倉さんが、まっていた、とばかり声をかけた。
『…………』
『到頭やったのか。……やっぱり』
 同じ仲間の順平が、源吉の萎《しお》れた顔を覗《のぞ》き見るようにしていった。
 源吉は、
『え、やっぱり……っというと』
(怪訝《おか》しなことをいう)と訊《き》きかえした。
『知らなかったのか、まだ。そりゃ悪かった、いや何んでもないんだ』
 順平は、如何にも具合悪そうに、口を濁した。
 然し、こうなると、いやなことのあった後だし、どこまでも聴きたくなるのは、人情だ。
『何んだい、やっぱり[#「やっぱり」に傍点]、というのは、……君たちに悪いことでなかったら教えてくれよ、俺、俺も人を一人轢いちまったんだから、気味が悪いじゃないか』
 倉さんと順平とは、顔を見合せていたが、漸《ようや》く倉さんが口を切った。
『源さん、源さんの轢いたってのは、あの岩《いわ》ヶ|根《ね》――Y駅とT駅の間の――カーヴだろう』
 源吉は、胸の中を、見透かされたような、気味悪さを覚えて、ガクッと頷《うなず》いた。
『あそこは、ひどいカーヴだ、おまけに山の出ッ鼻が、邪魔してるんで、まるで見通しが利かねェ、なんでも始めはトンネルを掘って真ッ直ぐにするつもりだったってェが、山が砂岩ばかりで仕方なしにあんなことになったそうだがね、魔のカーヴだ』
『魔のカーヴ――』
 源吉は、頭の中で、もやもやしていた恐怖の雲が、スーッと塊《かた》まりになったのを意識した。『やっぱり』という意味が、飲み込めた。
『魔のカーヴだ。よくある魔の踏切と同じ奴よ。若い娘がよく死ぬんだ。娘ばかりじゃねェ、失恋《ふら》れた若い男、借金《かり》で首の廻らねェ、百姓|爺《おやじ》の首が、ゴロンと転がったり……。
 おか[#「おか」に傍点]しなもんで、一人が死ぬと『吾《わ》れも、吾れも』とそこで死にたがるもんでな、轢くこっちはいい迷惑よ、嫌な思いをしなけりゃならねェし。
 おまけ[#「おまけ」に傍点]に坂で滑っているから、『あッ!』と思ったって間に合わねェ、知らねェで運転して車庫の検査で、めっけたって奴もあるぜ源さんの来る前にいたもん[#「もん」に傍点]だがね、見ると輪のところへ、ひらひらしたもんがくっ[#「くっ」に傍点]附いている、さわ[#「さわ」に傍点]ったが落ちねえ、ぐっと引っ張ったら、べたっ[#「べたっ」に傍点]と手についたんだ『わッ!』という騒ぎよ、何んだと思う、女の頭の皮さ、黒い長い髪が縺《もつ》れてひらひらしてたんだぜ、それが手に吸いついて、髪が指にからまっちまったもんだから、奴《やっこ》さん驚いたの、驚かねェの、青くなって、それっきり罷《よ》しちまった。その後釜《あとがま》が、源さんという訳よ』
 倉さんは、如何にも話好きらしく、長々と話し出したが、源吉には、もうそれ以上聴く元気はなかった。
(俺《おれ》も機関手なんて罷《や》めようか――)
 詰所を出ると、前の草原《くさはら》に、ごろんと寝た儘《まま》、喘《あえ》ぐように、考え続けた。
(罷めなければ、二日に一遍は、あそ[#「あそ」に傍点]こを通らなければならない――)
 ここで源吉が、潔よく罷めて仕舞えば、あの恐ろしい、轢殺の魅力なんかに、囚《とら》われずに済んだのだろうが、彼の不幸な運命《ほし》はそうはさせなかった。
 ――彼は何時《いつ》の間《ま》にか、
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング