失業の苦しみが、芯の髄《ずい》まで沁みていた……というよりも、職に離れると同時に、あの、獲《え》たばかりの美しき野獣――京子に、別れなければならぬ。と考えれば、辞職するなんて、滅相《めっそう》もないことだ。
(京子――そうだ、これから行って見よう)
 源吉は、大事な忘れ物でもしたように、ピョコンと飛起きると、頭の中を、全部京子に与え乍《なが》ら足早に歩き出した。

      三

 京子は、カフェー松喜亭《しょうきてい》の女給だった。「鄙《ひな》には稀《まれ》」とは京子のことではないか、こんなところに燻《くすぶ》っているのは、何か暗い影がありはしないか――と余計な心配を起させる程、優れた美貌の持主だった。
 源吉等の詰所でも、一日として話題の中に、京子が登場しない日はなかったろう。
 源吉としては、その皆んなにちやほや[#「ちやほや」に傍点]される女王のような京子が自分に好意を持ってくれる、と知った時は、圧倒されるような喜びに、却ってそわそわと狼狽《ろうばい》したほどだった。
 これは源吉の自惚《うぬぼ》れでもなんでもなかった。京子は、明かに彼に好意を持っていたのだ。それは源吉の持出した「堅い約束」に、唯々諾々《いいだくだく》と応じたのだから――。
 源吉は、常連らしく、何気《なにげ》なさそうな顔をして、松喜亭のドアーを潜《くぐ》ると、昼でも薄暗いボックスの中に、京子のピチピチとくねる四肢を捕えた。
 京子は、ボイルのような、羅衣《うすもの》を着ていた。然《しか》し、その簡単な衣裳は、却って彼女の美に新鮮を与え青色の模様の下に、躍動する雪肌は、深海の海盤車《ひとで》のように、柔《やわら》かであった。
 源吉は、しっとり[#「しっとり」に傍点]とした重みを胸に受け、彼女の血に溢《あふ》れた紅唇《くち》に、吸い寄せられた時、彼の脳の襞《ひだ》の何処《どこ》を捜しても「轢殺の苦」なぞは、まるでなかった。
(罷めようか――)
 と考えた自分は、とんでもない、莫迦野郎《ばかやろう》だ、と思った。
 又、尤《もっと》もらしい顔をして、京子の美を讃嘆する、倉さんや、順平や、その他多くの間抜けた顔が眼に浮ぶ度に、京子を固く抱《いだ》いた腕は、彼女のふくふくした躰が、くびれはしまいかと思われるほど、力を加えられて行った。
 源吉は、限りなく幸福であった。
 だが、この快楽《けらく》
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