第二五六号室と書かれた札が下っていた。そして、ドアーを開けると、いきなり足元に慕い寄って来た小動物があった。
 思わず後退《あとずさ》りしながら確かめると、それは小犬ほどしかないけれど、間違いもない象なのだ。アッと思って眼を上げると、その眼に今度は小牛ほどもあろうかと思われる化け物のような蟋蟀《こおろぎ》が写った。そのほか色々なものがいたようである。が、それらを見直す前に、その蟋蟀が戸板のような羽根を擦り合わせ、鼓膜のしびれるような、破《わ》れ鐘のようなチンチロリンをはじめたのである。チンチロリンをはじめたところを見ると、それは蟋蟀ではなく、松虫であったようだが、そんなことは、たしかめる暇がなかった。中野は、顔色をかえてドアーの外に飛出してしまっていたのだった。
「どうしたい?」
 中野は、まだ息が切れていた。あの犬ころのような象の、貧弱な細い鼻で舐められた足のあたりが、まだむずむずしているようだった。
「なんです、この化け物屋敷のような部屋は……」
「一口にはいい憎いが、とにかく物の大きさというものの疑問を研究している部屋だよ、つまり、兎なら兎、鼠なら鼠と、大体その大きさは一定しているだろう。いかに栄養をよくしても、犬のような蚤は出来ないし、又いかに不足な栄養でも目高《めだか》ぐらいの鯛《たい》はいない――この研究は、ほぼ完成に近づいて、あのように牛ぐらいもある松虫や犬ころみたいな象が造れるようになった」
「…………」
「毒気を抜かれた恰好だね、ふふふふ」
 叔父は、含んだような笑い方をすると、黙りこんでいる中野の肩をぽんと一つ叩いた。
「じゃ向うに行こう……」
 又、長い廊下を、こつこつと進んで行って、第五〇二号と書かれた部屋の前に立止った。
「ここは、最近だいぶ犠牲者を出した部屋だ――」
「犠牲者――?」
 中野は、一体そのなかからどんなものが飛出して来るのかと、一寸尻込みをしながらそれでも怖いもの見たさでおずおずと覗きこんだ。
 其処には、白銀色の大きな潜水艦のようなものが、七八分通り組立てられてあった。
「月世界行のロケットだ、第二号目さ」
「第二号目……というと?」
「第一号は、失敗してしまったのさ。十分の一秒の計算違いをしたために、えらいことをしてしまった」
「たった十分の一秒の違いですって?」
 中野は訊きかえした。
「そうだよ、それがえらいことなのだ。大体月までの平均距離は三十八万|粁《キロ》ばかりある。それを一秒間に五百米のスピードでロケットを飛ばして行ったとすると約八日と二十一時間かかるんだ。一秒に五百米なんていうスピードは一寸想像も出来ない。ましてそれだけのスピードを持たすための初速度は実に物凄いもので、たかが市内電車の急発車でもひっくりかえるような人間は、ロケットが飛出した瞬間に床に叩きつけられて死んでしまう位がオチさ。しかしそれの予防法は出来た。……が、第一回のロケットの出発の際に十分の一秒、つまり計算上|,《こんま》の打ちどころを一桁だけ間違ったために、いざそのロケットが月に到着する時になって七千五百二十六万四千米ばかりも喰い違いが出来た。えらいことさ。第一回のロケットはそうした訳で、月の通ってしまったあとの、空ッぽのところに飛んで行ったんだ……」
「……そして、どうなったんです」
「……そして、肝腎の月に行きあたらなかったから、そのロケット日章島第一号は、今も果てしもない大宇宙を飛んでいるよ。闇黒の零下二百七十度の中を――。無論もう酸素も食糧も尽きただろうから十五人の地球人の死骸を乗せた棺桶となったロケットが飛びつづけている。真空の宇宙だから止《とど》まることはない。無限に運動をつづけているわけだ……つまり、一つの星となってしまったのさ」
 流石に、細川三之助も暗然として、ドアーを閉ざした。そして
「なアに、こんどは成功するさ。もうすぐ月世界に、第一回の日章旗をたてて見せる。こんどは先刻《さっき》一寸いった整形外科へ案内しよう……」

       七

 その部屋の番号は第六六五号だった。
「さあ、中へ入って……」
 叔父はどんどん入って行った。中野も続いて行った。
 あの、慶子ソックリの美女を造る整形外科室と聞いて、中野は、一段と眼を欹《そばだ》てながら、ドアーを潜《くぐ》った。
 まだ奥にも部屋があるらしいが、その最初の部屋は、一寸病院の診察室といった感じだった。しかも、最早美女の施術は終ったのか、傍らの椅子に、ずらりと並んでいるのは、あまり人相のよくない男たちで、突然入って来た中野の方をじろじろ流し見ては、何か小声で囁きあっていた。
 細川三之助は、一向そんなことには頓着なく、奥でカルテを見ている白衣を着た禿頭の老人の所に行くと、しばらく何かぼそぼそと話しあっていたが、やがて、その二人は、何か頷きながら中野を麾《さしま》ねいた。
「え、なんですか……」
「一寸、ここに寝てくれんか」
 傍らの手術台のようなものを指した。
「えっ、こ、ここへ?」
「いやか」
「いやですよ、何処も悪くないです」
「今更いやじゃ困る。これを頼もうと思ったから、黙って連れて来てやったんだ……」
「ど、どうするんですか」
「どうもせんよ、一寸モデルになって貰えばいいんだ」
「モデル――?」
 途端に中野は、すっかり意味が飲み込めた。向うの椅子に、ずらりと並んでいる人相の悪い連中が、美男型の中野ソックリの貌《かお》になろうとしているのだ。
 叔父の言葉によると、どうやらそれを眼あてに彼をこの島に連れて来たらしい。彼は一つの見本《サンプル》として連れて来られたのだ。
 中野は、夢中で逃げようとした。パッと身をかわしたつもりだったが、それよりも早く、禿頭の医者にぐいと右手を執《と》られてしまった。
「あっ――」
 と思ったのは、掴《つか》まれたばかりではなく、その上、チクリと針を刺されたような痛みを感じたからである。
 と、同時に、急に体の力が抜けてしまった。余程強い薬を注《さ》されたらしい。
 中野は、朦朧《もうろう》とした意識の中で、自分が台の上に運ばれ、まるで死面《デスマスク》をとられるように、顔一面に何かを押しつけられたのを、ふわふわと憶えていたが……。
          ×
 中野は、ジリジリと照りつける陽を感じて、やっと眼が覚めた。
 まだ体がふわふわする――。が、こんどはそれは海の上のボートにいるからだ、と気づいた。
(なぜボートに乗っているのだろう……)
 一生懸命になって、やっと上半身を起した。外《はず》れたピントがだんだん調節されるように、視力が定まって来ると、いきなり中野は、ぎょっとして眼を見張った。
 つい、彼のすぐ眼の前で、櫂《かい》をあやつっている男は、まるで鏡の中を覗いたように、中野五郎ソックリ、寸分の違いもない男なのだ――。
「あら、気づかれたの……」
 その声に、又眼を見張ると、それは艫《とも》の方にいて、舵をとっていた小池慶子だった。
「あ、あなたも……」
「ええ、到頭来てしまったの……」
 慶子は、ジッと、心もち愉しそうに、中野の顔を見た。
「それでは――、中野さんも気づかれたようですし、失礼しましょう……。もう十分ほどすると、丁度このそばを日本汽船が通りますから間違いなく……」
 中野ソックリの男はそういって立上ると、二人に一揖《いちゆう》して海に飛込み、そのまま抜手を切って泳ぎ去ってしまった。
 中野は、慌ててあたりを見廻した。しかし、いずれを見ても、渺々満々たる大海原の真只中で、とても泳ぎ切れるとは思えなかった。
(そうだ、人工蜃気楼にかくされた日章島が、このすぐ近くにあるんだ……)
 と気づいた。しかし、いかに瞳を凝《こ》らして見ても、遂にそれは見わけられなかった。
 ――思って見れば、長い悪夢のようであった。だが、美しい慶子が眼の前で微笑んでいるのだから決して夢ではない。
 水平線に、ぽつんと見えて来た汽船が、やがてこの大洋の中の漂流ボートを見つけたのであろう。汽笛を鳴らしながら近づいて来た。
 中野は、一生懸命に、彼女とともに手をふりながら、あの日章島では、この自分とソックリの男たちが、慶子ソックリの女たちと共に、生活し、恋愛しているのかと思うと、ふと、もう一遍あたりを見廻したい気持に襲われた。そっと自分の腿を抓《つね》って
(自分は本物だが、この慶子は、果して本物であろうか――?)
 と――。
[#地付き](「ユーモアクラブ」昭和十四年十月号)



底本:「火星の魔術師」国書刊行会
   1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「百万の目撃者」越後屋書房
   1942(昭和17)年発行
初出:「ユーモアクラブ」
   1939(昭和14)年10月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年12月30日作成
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