しかしその実、彼の眼はレンズに喰い入るように押つけられていたのである。
 そのレンズの向う、船のデッキに立っている白髪の老人は、もう十五六年も昔になるが大震災の時以来、まったく消息を断ってしまっていた叔父の細川三之助に違いなかった。その当時、まだ中学生になったばかりの中野の記憶に比べれば、相当|老《ふ》けてはいるが、たしかに見当違いではないと断言出来た。
 震災の日を命日としてすでに位牌になっているその叔父が、つい其処《そこ》に健在とは――。しかもこんなところに悠々と船に乗っているとは――。それなのに、なぜ家にハガキ一本の通知も寄越さなかったのであろう――。
 だいたいこの叔父、細川三之助は風変りな科学者で、研究室に閉籠《とじこも》っていて世間とはまったく往来《ゆきき》をしなかったばかりか、博士号をどうしても固辞して受けなかった、ということは聞いていたが、それにしても、倒壊した研究室から忽然と姿を消したまま、今日まで一片の通知状さえくれないでいた、というのは奇矯すぎるし、その上この夏の海浜に、美少女と携えてスマートな船を乗り廻しているなどということは、凡そ想像を絶する出来事だ。
 
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