、何か頷きながら中野を麾《さしま》ねいた。
「え、なんですか……」
「一寸、ここに寝てくれんか」
 傍らの手術台のようなものを指した。
「えっ、こ、ここへ?」
「いやか」
「いやですよ、何処も悪くないです」
「今更いやじゃ困る。これを頼もうと思ったから、黙って連れて来てやったんだ……」
「ど、どうするんですか」
「どうもせんよ、一寸モデルになって貰えばいいんだ」
「モデル――?」
 途端に中野は、すっかり意味が飲み込めた。向うの椅子に、ずらりと並んでいる人相の悪い連中が、美男型の中野ソックリの貌《かお》になろうとしているのだ。
 叔父の言葉によると、どうやらそれを眼あてに彼をこの島に連れて来たらしい。彼は一つの見本《サンプル》として連れて来られたのだ。
 中野は、夢中で逃げようとした。パッと身をかわしたつもりだったが、それよりも早く、禿頭の医者にぐいと右手を執《と》られてしまった。
「あっ――」
 と思ったのは、掴《つか》まれたばかりではなく、その上、チクリと針を刺されたような痛みを感じたからである。
 と、同時に、急に体の力が抜けてしまった。余程強い薬を注《さ》されたらしい。
 中野は、朦朧《もうろう》とした意識の中で、自分が台の上に運ばれ、まるで死面《デスマスク》をとられるように、顔一面に何かを押しつけられたのを、ふわふわと憶えていたが……。
          ×
 中野は、ジリジリと照りつける陽を感じて、やっと眼が覚めた。
 まだ体がふわふわする――。が、こんどはそれは海の上のボートにいるからだ、と気づいた。
(なぜボートに乗っているのだろう……)
 一生懸命になって、やっと上半身を起した。外《はず》れたピントがだんだん調節されるように、視力が定まって来ると、いきなり中野は、ぎょっとして眼を見張った。
 つい、彼のすぐ眼の前で、櫂《かい》をあやつっている男は、まるで鏡の中を覗いたように、中野五郎ソックリ、寸分の違いもない男なのだ――。
「あら、気づかれたの……」
 その声に、又眼を見張ると、それは艫《とも》の方にいて、舵をとっていた小池慶子だった。
「あ、あなたも……」
「ええ、到頭来てしまったの……」
 慶子は、ジッと、心もち愉しそうに、中野の顔を見た。
「それでは――、中野さんも気づかれたようですし、失礼しましょう……。もう十分ほどすると、丁度このそばを日本汽船が通りますから間違いなく……」
 中野ソックリの男はそういって立上ると、二人に一揖《いちゆう》して海に飛込み、そのまま抜手を切って泳ぎ去ってしまった。
 中野は、慌ててあたりを見廻した。しかし、いずれを見ても、渺々満々たる大海原の真只中で、とても泳ぎ切れるとは思えなかった。
(そうだ、人工蜃気楼にかくされた日章島が、このすぐ近くにあるんだ……)
 と気づいた。しかし、いかに瞳を凝《こ》らして見ても、遂にそれは見わけられなかった。
 ――思って見れば、長い悪夢のようであった。だが、美しい慶子が眼の前で微笑んでいるのだから決して夢ではない。
 水平線に、ぽつんと見えて来た汽船が、やがてこの大洋の中の漂流ボートを見つけたのであろう。汽笛を鳴らしながら近づいて来た。
 中野は、一生懸命に、彼女とともに手をふりながら、あの日章島では、この自分とソックリの男たちが、慶子ソックリの女たちと共に、生活し、恋愛しているのかと思うと、ふと、もう一遍あたりを見廻したい気持に襲われた。そっと自分の腿を抓《つね》って
(自分は本物だが、この慶子は、果して本物であろうか――?)
 と――。
[#地付き](「ユーモアクラブ」昭和十四年十月号)



底本:「火星の魔術師」国書刊行会
   1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「百万の目撃者」越後屋書房
   1942(昭和17)年発行
初出:「ユーモアクラブ」
   1939(昭和14)年10月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年12月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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