地図にない島
蘭郁二郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)葦簾《よしず》張り
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)赤|蜻蛉《とんぼ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)のっけ[#「のっけ」に傍点]
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一
痛いばかりに澄み切った青空に、赤|蜻蛉《とんぼ》がすーい、すーいと飛んでいた。
「もう終りだね、夏も――」
中野五郎は、顔馴染になった監視員の、葦簾《よしず》張りのなかに入りながら呟いた。
「まったく。もうこの商売ともお別れですよ……」
真黒に陽にやけた監視員の圭さんが、望遠鏡の筒先きに止まっている赤蜻蛉を、視線のない眼で見ていた。
夏の王座を誇っていたこのK海水浴場も、赤蜻蛉がすいすい現れて来ると、思いなしか潮風にも秋の匂いがして来た。波のうねりは、めっきり強くなったし、びっしりと隙間もないほど砂浜を彩っていた、パラソルやテントの数が、日毎に減って行った。いままでが特別華やかだっただけに、余計もの淋しかった。
「どれ……、又かしてもらうかな」
「…………」
圭さんは、一寸《ちょっと》頷くように眼を動かしたきりだった。
中野は、そこに設《そな》えつけの、望遠鏡の接眼部を拭うと、静かに眼に当てた。
いつものように、水平線の方からずーっと見渡した。沖には肉眼では見えにくいが、舟が二艘出ていた。しかし、それきりだった。
こんどは右手の岬の方に、廻して見た。
――この、望遠鏡を覗く、というのはまあ一種の役徳ですよ、相当『珍』なのがありますからね、とは圭さんの笑いながらの話だけれどそんな意味ばかりでなく、中野は望遠鏡をのぞくのが好きだった。
たかが地上望遠鏡で、口径の小さい、倍率の低いものだったけれど、それでもこんな簡単な筒を通して見るだけで、肉眼では見えない向うの世界が手にとるように、引寄せられるというのが楽しかった。何か、人の知らないものを、自分だけこっそり楽しむという慾望が人間にあるのなら、望遠鏡は、たしかにその一つを味わわせてくれる機械である。
――岬の方にも、変った様子はなかった。釣りのかえりらしい男の歩いているのが見えたが、その魚籠《びく》のなかは、いくら見ても空ッぽらしかった。
が、望遠鏡の向きをかえよう、とした時だ。ふと岩蔭の窪みに、見馴れぬ船が舫《もや》っているのに気づいた。十|噸《トン》ぐらいの白色に塗られたスマートな船だ。
その岩蔭のあたりは、碧味《あおみ》をもった深淵になっていて、その位の船は、悠々つけられるのは知っていたが、船のあるのを見たのは今日がはじめてである。
その船も、この辺ではついぞ見かけぬ船のようだ。岩蔭に、半分以上かくれているので船尾の船名は見えなかったけれど、見るからにスピードの出そうな、近代的な流線型の船首が、ゆっくりと波にゆられていた。
「珍しい船がいるね」
中野は、望遠鏡から眼を離して圭さんをかえりみた。
圭さんは相変らず、その陽焼けした顔に、一すじの表情も浮べないで
「うん……外人のだろう」
そう、気のなさそうな返事をして、見向こうともしない。中野は仕方なしに、また望遠鏡を覗きこんだ。
「…………」
いつの間にか、いま一寸眼をはなしたばかりなのに、その間に船には人影が現われていた。しかもあでやかな、薄いワンピースを着た若い女性らしく、その藤色というよりも小豆《あずき》色に近い色調が、陽の照りかえしのように眼に沁《し》みた。中野は、あわてて接眼レンズを拭いなおしたり、ピントを調節したりして、一心に覗きこんだ。
日本人で、二十歳ぐらいの女性だった。漆黒の断髪を潮風に靡《なび》かせ白い船室をバックにして手すりに靠《もた》れていた。海風が彼女の体を撫でるたびに、彫刻のように均斉のとれている肢体が、レンズを透してふっくらと浮出して見えた。
そして、何気なく彼女がこちらに向けた顔と、レンズを透してばったり真正面《まとも》に会った時、中野は思わず、低くはあったが
「あ!……」
と洩らしてしまったくらいであった。それほど、彼女が美しかったのである。
二
それから、瞬きも忘れて見入っていると、また船室から一人が現われた、こんどは男だった。しかし矢張り日本人である。さっき圭さんが、外人の船だろうと、いったのは、どうやら出まかせらしかった。
(どんな男か……?)
ピントをそちらに向けた中野は、こんどこそ
「あっ……」
と驚きを洩らしてしまったのだ。
「なんだい中野さん……」
圭さんにも聞えたと見えて、間伸びのした声をかけて来た。
「うん、いや、何んでもないさ」
中野は、まるで望遠鏡にぶらさがるような恰好をして見入ったまま、口先きだけの返事をした。
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